シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

エリート意識も潜む若き日の万能感

 二人だけで岩手山に登山し、一切の苦しむ衆生を救うため、「神の国」(保阪さん)・「まことの国」(宮沢さん)を建設することを誓い合ったころから国柱会での活動を経験しているころまでの、二人の、とくに精神的な歩みはどのように特徴づけすることができるでしょうか。ここでは、「エリート意識も潜む万能感」と名づけてみました。

 若いときにはとくに、有能感をもつことは自分の成長にとってとても大切なことではないかと考えます。それは、有能感がある目標に向かっての自己研鑽の努力に結びつくからです。同時に、有能感は自己肯定感という人間存在にとってとても重要な感覚を支えてもくれるのです。

 しかし、そのことを一方的に喜んでばかりはいられないということもあります。なぜならば、有能感や万能感は、一方で容易に他者をばかにし、差別し、排除する気持ちを生んでしまうことがあるからです。それは、苦しむ一切の衆生を救うというある意味崇高な目標を掲げている場合にも起こりえることなのかもしれません。

 宮沢さんと保阪さんの場合はどうだったのでしょうか。少しエリート意識が潜在していたように感じます。『宮沢賢治の青春 〝ただ一人の友〟保阪嘉内をめぐって』の著者である菅原さんによれば、高等農林学校の学寮へ「入寮して一ヵ月、嘉内は『人間のもだえ』と題する原稿用紙九枚の戯曲を書いた」のです。その中で、保阪さんは「全能の神(アグニ)」を、そして宮沢さんは「全智の神(ダークス)」という役を演じることになっています。

 また保阪さんは、自分たちが創設した文芸紙「アザリオ」四号の「打てば響く(小説)」の中で次のような私見を述べています。「人間が自分をいつわる事程悪いことはない。……土塊はいかに多く積もるゝとも土塊だ。人はいかに多く集るとも烏合の集では何にもならない。それ故にある集りに集るごとき人々ならばすべてが仝し方向に向って仝じ考へで、ほんとうに、まじめで、御悧口者でなく、共に進んで行たいもの」ですと。これは同じ方向に進めるのは、自分と宮沢さんの二人だけであると言いたかったのではないでしょうか。

 さらに保阪さんは、「アザリオ」五号の「社会と自分」の中で自分の存在を次のように主張しています。「ほんとうにでっかい力。力。力。おれは皇帝だ。おれは神様だ」と主張しています。

 そうした保阪さんの言動に宮沢さんは次のように応じていたのではないでしょうか。「私共が新文明を建設し得る時は遠くはないでせう……。みんなと一緒でなくても仕方がありません。どうか諸共に私共丈けでも、暫らくの間に静に深く無一の法を得る為に一心に旅をして行かうではありませんか」(1918年3月20日前後の保阪さん宛手紙)と。

 また宮沢さんは保阪さんに、「大聖人御門下になって下さい。一緒に一緒にこの聖業に従ふ事を許され様ではありませんか。憐れな衆生を救はうではありませんか」(1921年中旬の保阪さんへの手紙)と呼びかけていました。宮沢さんは、自分たちはあくまで「憐れな衆生」を救う人であり、そのために「大聖人」によって選ばれるに値する人であると自認していたものと思われるのです。

 宮沢さんは、これ以前から、自分はものの見方、感じ方、そして認識において人とは違った感性を持っていると気づいていたようです。そしてここからは個人的な推測になるのですが、当初そのことを他の人に告げることをためらっていたのではないかと思います。もしかしたらコンプレックスさえ感じていたかもしれません。

 しかし、高等農林学校入学後、とくに保阪さんとの交友の中で、むしろそのことが少なくとも宗教的には自己のすぐれた特性であるとの予感的期待になり、自負にまで高まろうとしていたしていたのではないかと感じるのです。自分はブッタにより選ばれるべき人物ではないかとさえ無意識的に感じていたのかも知れません。

 こうした文脈の視点で法華経を見ると、それは、ある意味、ブッタによるさまざまな菩薩の成仏への約束の「授記」物語であると読めるのです。

 

          竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン

裏切られた仏国土コミュニティへの期待

 宮沢さんが国柱会の門をたたくに当たってさらに夢見たこと、希望をもっていたこと、そして期待したこととは何だったのでしょうか。それは、国柱会こそが仏国土とはどのような社会(コミュニティ)であるかを、実際に体現し、示してくれるのではないかというものだったのではないかと推測します。

 なぜならば、宮沢さんが震えるほどの感動をおぼえた法華経をはじめとするもろもろの経典には、仏教の教えを信じる人たちが創るコミュニティとはどのようなものかが、種々描かれているからです。法華経の示す世界を文字通り世界的規模で実現することをめざしている国柱会はそれに相応しいコミュニティの姿をしているはずであると、宮沢さんは信じていたのではないでしょうか。

 法華経の「五百弟子受記品」には、「正しい仏の教えを聞けば、人の心は仏心となる。仏心となればお互いに慈しむようになる。すると、この人たちの住む世界は仏国土となる」ということが記されているといいます。

 「この国土の人たちはたいへんに心がりっぱであるから、自然と心が顔の形に現れてくる。三十二相というりっぱな特相をそなえた顔になってくる。……食事が普通の人たちと異なる。すなわち法喜食(ほうきじき)と禅悦食(ぜんねつじき)を食べている。……人間は食物をとらなければ肉体を養うことができないのと同じように、精神の食事となるのがこの二つの食である」とも言われているそうです。

 華厳経には、菩薩たちが住む「歓喜地」について次のように描写されています。「菩薩は歓喜地に住すると、喜び多く、信ずる心豊かに、よく清められ、踊り上がるほど悦びがあり、心がよく調(ととの)えられ、よく堪え忍び、争いを好まず、衆生を悩ますことを好まず、怒ったり恨んだりしない」のです。

 また、歓喜地では、「仏たちの教化(きようげ)の仕方を念ずるので歓喜の心を生じ、衆生のために活動しよう念ずるので歓喜の心が生じ、一切の仏、一切の菩薩が入る智慧と方便の教えを念ずるので歓喜のこころが生ずる」のです。

 社会と個人との関係や社会生活における個人と個人の人間関係の在り方を探究する社会学の目から見ても、本統に上述のような社会(コミュニティ)が実現したら夢のような出来事だなと思います。宮沢さんもそうした夢のようなコミュニティが国柱会にあるのではないかと期待していたのではないかと推測します。

 しかし、上京し国柱会の門を叩いてすぐにその期待は失望へと変わっていったのではないかと思います。1921年1月30日の関徳弥さんへの手紙の中でその失望の気持ちを次のように吐露しています。

「周囲は着物までのんでしまってどてら一つで主人の食客になってゐる人やら沢山の苦学生、辨(ベンゴシの事なさうです)にならうとする男やら大抵は立派な過激派ばかり、主人一人が利害打算の帝国主義者です。後者の如きは主義の点では過激派よりももっと悪い。田中大先生の国家がもし一点でもこんなものならもう七里けっぱい御免を蒙ってしまう所です」と。

 国柱会への奉仕生活の中でそうした実感しかもてないでいたとするならば、心友保阪さんへの折伏も実感をともなった説得力あるものとはならなかったのではないでしょうか。宮沢さんの保阪さん宛の手紙以外には、二人の間にどのようなやり取りがあったのか、具体的にはよくわかっていないようですが、けんか別れのようになってしまったことは確かなようです。

 このことに関しては、『宮沢賢治の青春 〝ただ一人の友〟保阪嘉内をめぐって』の著者である菅原千恵子さんの見解を参照しておきたいと思います。菅原さんは、宮沢さんは保阪さんに「恋心を抱いていた」という独自の視点をもっている方ですが、ここではその点に関わることはせず、「けんか別れ」に関する見解だけを参照することだけにとどめておきたいと思います。

 菅原さんは指摘します。「実際の労働の場に身をおいたことのない賢治がはじめてみる世の中の姿といえば大げさであるけれど、親の囲いの中で、しかも頭の中で理想化された宗教世界に燃えていた賢治に、そのギャップは案外大きかったのではあるまいか」と言わざるをえないのですと。

 「だからこそ、嘉内から突然法華経徒として生きていくための具体的な望みや願いは何かと問われたとき、賢治は何も答えることが出来なかったのにちがいない」のです。「法華経を通して人々の幸せを願う賢治を嘉内は理解し認めていた。けれど、信仰による人々の具体的な救済とはいったい何なのかを問わずにはいられなかった。賢治は答えに窮する。国柱会々員になることや、国柱会の下足番をすることや、ビラ配りの布教活動をすることが人々の幸福のために生きる実践だったのか」嘉内さんを説得できるものではなかったのです。

 「『神はおれのうちにある』と宣言し、現実に鍬を持つことで商業主義の嵐に荒む農村の中に入ってゆこうとしていた嘉内が、賢治と再会したとき、日本農村の暗い現実、法華経の無力、賢治の信仰の観念性を鋭く突いたであろうことは容易に察せられる」のです。

 実際には折伏をめぐってどのようなやり取りがあったのか確証はないのですが、日蓮さんの降誕700年の奇蹟により宮沢さんが菩薩となるという夢が幻と終ってしまったことは確かなことでしょう。その上、菅原さんが推測したように、苦しむ一切の衆生を救うということの「具体的な望みや願いは何か」が分からなくなってしまったことも確かなのではないでしょうか。

 自分が成仏することさえできればすべての存在が救われ、仏国土が実現すると思い込みすぎていたのではないかと思います。しかし、社会を作り変えることができるのは、社会を構成している人々自身でなければならないのです。例え宇宙の真理を把握したとしても、誰か一人の人の思いで社会を変えることはできません。その一人の「人」が神や仏であっても、宇宙意志であっても、自由自在に社会を作り変えることはできません。社会を作り、変えていくのはそうしたいという集合的な意志をもった「人々」自身なのです。

 国柱会での活動をこのまま続けていくべきか、急速に宮沢さんに迷いが生じます。1921年7月13日の関徳弥さん宛の手紙の中でそうした自分の状況を次のように記していました。「私の立場はもっと悲しいのです。あなたぎりにして黙っておいて下さい。信仰は一向動揺しませんからご安心ねがひます。そんなら何の動揺かしばらく聞かずに置いて下さい」。「おゝ。妙法蓮華経のあるが如くに総てをあらしめよ。私には私の望みや願ひがどんなものやらわからない」のですと。

 このとき宮沢さんは国柱会で活動しつづけることは最早できないと感じていたのではないでしょうか。ではどうしたらよいのか、心底迷っていたように思えます。

 

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夢まぼろしに終った降誕700年の奇蹟

 日蓮さんの降誕700年の日が過ぎしばらくしても何ら奇蹟の起こる兆しは見えなかったのです。それだけでなく、期待していた父や心友保阪さんへの折伏も不成功に終わってしまいました。むしろ折伏の中で、とりわけ心友保阪さんとの間で大きな心の傷を生んでしまったと言われています。

 折伏という自分の信仰を伝道する方法は、それだけ人間関係を損なう可能性を秘めているものだったのではないでしょうか。とくに日蓮さんが要求する折伏は、異なる宗教を信じている人に対しては、なおさら激しく相手を否定し、攻撃しかねないものだったようです。

 世の乱れは人々が間違った教えを信仰していることでなくならないというのが日蓮さんの考えだったのです。日蓮さんの教えは、「破邪顕正(はじやけんしよう)」という教えであり、「重悪は即ち勢力を以て折伏す」ることを主張するものだったのです。『鎌倉仏教』の著者戸頃さんによれば、「勢力とは実力」を意味する攻撃的なものだったのです。その攻撃性は、国柱会を設立した田中さんの教えになると、「悪人はどしどし殺すべきである」というかなりエスカレートした過激なものとなっていたのです。

 日蓮さんのそうした攻撃的な姿勢は『立正安国論』によく示されているそうです。それは、「天災地変や内憂外患の危機の根源を思索した結果、とくに法然の念仏を禁止して、国土全体が正法たる『法華経』に帰依しなければ、安国にならないことを諫諍(かんそう)する、壮年の血気あふれた論書である。それは、『立正』の確立によってのみ『安国』の理想が実現されることを主張し」ていたのです。

 宮沢さんが生きていた時代と社会は、ある意味「天災地変や内憂外患の危機」の時代と社会でした。その危機にどのように向き合ったらよいか、宮沢さんは、無意識ではあったかもしれませんが、日蓮さんの向き合い方に共感したのではないかと思います。しかし、その代償は大きなものでした。父や心友である保阪さんとの関係性を、もしかしたら「本統」(宮沢さんが好んで使っていた用語です。)に破綻させるものだった可能性もあったのではないかと推測されます。

 法華経布教のための童話などの出版のための段取りをつけたいということも、このときの宮沢さんの上京の目的にあったのではないかと思います。通説では、宮沢さんが童話などを書き始めたのは上京時に応対した国柱会幹部の高知尾智耀さんから特技をいかして布教することを勧められたことによるものと言われています。しかし、宮沢さんは上京以前に童話等による布教の方法に自分の役割を定めていたのではないか考えます。しかも、もしそれが自活のためのものとなれば最善だとも、少なくとも潜在的には願っていたのではないかと推測します。

 上京によってその夢実現の足場を築きたいと考えていたのではないでしょうか。1921年の上京前後の手紙でその思いの跡をたどってみようと思います。「私ならば労働は少なくとも普通の農業労働は私には耐え難いやうです。……あゝ私のからだに最適なる労働を与えよ。……われは物を求むるの要なくあゝ物を求める心配がなくなったなら、私は燃え出す。本当に燃え出して見せる。見せるのではなく燃えなければならない」(1919年7月:保阪さん宛)のです。

 「見よ。このあやしき蜘蛛の姿。あやしき蜘蛛のすがた。……その最中にありて速やかにペン、ペンと名づくるものを動かすものはもとよりわれにはあらず。……人あり、紙ありペンあり夢の如きこのけしきを作る。……謹みて帰命し奉る 妙法蓮華経。南無法蓮華経」(1919年8月20日前後:保阪さん宛)。

 「来春は間違いなくそちらへ出ます 事業だの、そんなことは私にはだめだ 宿直室でもさがしませう。まづい暮らし様をするかもしれませんが前の通りつき合って下さい。今度は東京ではあなたの外には往来したくないと思ひます。真剣に勉強に出るのだから」(1920年8月14日:保阪さん宛)です。

 「私の出来る様な仕事で何かお心当たりがありませんか

  学術的な出版物の校正とか云ふ様な事なら大変希望します

  今や私は身体一つですから決して冗談ではありません……

勉強したいのです 偉くなる為ではありません この外には私は役に立てないからです」(1921年中旬:保阪さん宛)。

 「昨日帝大前のある小印刷所に校正係として入り申し候」(1921年1月28日:保阪さん宛)。

 「さあこゝで種を蒔きますぞ。もう今の仕事(出版 校正 著述)からはどんな目にあってもはなれません」(1921年1月30日:関徳弥さん宛)。

 「私は書いたものを売らうと折角してゐます。……

  なるほど書く丈なら小説ぐらゐ雑作なにものはありませんからな。うまく行けば島田清次郎氏のやうに七万円位忽ちもうかる、天才の名はあがる」(1921年7月13日:関徳弥さん宛)。

 以上の手紙だけを見ても宮沢さんの「勉強」・執筆・出版へかける心情を感じることができるのではないでしょうか。しかし、このときにはその心情が現実に実を結ぶことはありませんでした。宮沢さんはそのことにも相当失望したのではないかと感じます。

 少し横道にそれることになりますが、宮沢さんは法華経の伝道師になろうと決心したときに、なぜ出家するという道を選ばなかったのでしょうか。それが宮沢さんの本願を実現するのに相応しい道のように思えるのですが。「今の時代は僧の身では、かえって真剣に耳を傾けて」(1918年2月2日:父宛)もらえないと考えたからのようです。だとすると宮沢さんは具体的にどのように法華経の教えを社会に広めようとしたのでしょうか。

 もともと宗教は教えを広めたり、修行するために芸術的なものを含めさまざまな方法がとられてきたのではないかと思います。NHKの宗教の時間:「『観無量寿経』をひらく」の講師である釈さんは、「十六の観法」という「観無量寿経」における物語の主人公である「韋提希」さんの「浄土往生」までの釈迦さんの教えを説明しています。さらにコラムで「絵解き」などの教えを流布する方法について紹介しています。

 その中のひとつである「譬喩を用いて教えを語るダールシュターンティカ(譬喩者)」という人たちの紹介に興味が惹かれました。釈さんによれば、この人たちから「部派仏教から大乗仏教への橋渡しをする重要な部派であ」る「サウトラーンティカ」と呼ばれる人たちが出てきたそうなのです。

 宮沢さんが意識的・自覚的にそうしようとしたかどうかについては確証がありませんが、「ダールシュターンティカ」の人たちのような形で、法華経の流布を図ることが自分の使命であると考えていたのではないかと思います。

 さらに、ここで先取りすることになりますが、宮沢さんの『春と修羅』を端緒とする一連の心象スケッチによる創作は、宮沢さんを主人公にした「修羅の成仏」物語という新しい仏経典の創造を意図したものだったのではないかと思います。それというのも、仏経典の主内容のひとつは、それ自体がさまざまな仏さんの「成仏」物語となっているからです。そうした数々の仏経典の中で、法華経はお釈迦さん自身の成仏物語となっており、その意味で多くの人たちから特別なものと認識されてきたのではないかと考えます。

 1921年2月16日にもし日蓮さんのような奇蹟が起き、宮沢さんの夢がかない、「成仏」できていたとしたら、『春と修羅』以降の作品は全く違ったものとなっていたかもしれません。

 

          竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン

日蓮さんの教えを信じ膨らみゆく夢・希望・期待(2)

 日蓮さんの降誕700年、そして「天業民報」の記事にある日蓮さんが「世間に行じ給ひ」ということは、宮沢さんにとってどのような意味をもつものだったのでしょうか。それは、宮沢さんと、もし宮沢さんの折伏を受け入れ日蓮さんの教えに帰依していたとすれば保阪さんもともに、念願であった菩薩道を完成させ、「成仏」できる日の到来を意味するものだったのではないかと、推測します。それは、いよいよ、「総ての人よ。諸共に真実に道を求めやう。」と叫ぶことができる日の到来なのです。その日とは、1921年2月16日のはずでした。

 仏さんは、菩薩道をめざす人を見守り、ときにはその神力によって奇蹟を与えることがあることが、華厳経に記されています。それは、華厳経の「入法界品」にあります。『仏教経典選5 華厳経』の著者である木村清孝さんの解説でその話の内容を確認しておきたいと思います。

 木村さんによれば、華厳経とは、「仏のさとりの内実、あるいはさとりの真実を体現した仏そのものを追求し開示すること」、そして「そういう仏のさとりへ到達する道を明らかにする」経典なのだそうです。その中の「入法界品」は、「善財童子」という主人公が、「さまざまな……師を訪ねて教えを開き、最後に普賢菩薩のもとで仏となることを予言される」物語です。それは、理想的な菩薩の生き方を示しているのだそうです。それは、宮沢さんのモデルともなりうる生き方を示すものだったのではないでしょうか。

 その物語の中で、「文殊師利」さんが次のように諭す場面があります。「善き師を求め、近づき、敬い、一心に供養しつづけ、菩薩の実践について尋ねるがよい」というようにです。宮沢さんにとって、「善き師」とは、そのときは日蓮さんに他ならなかったのでしょう。しかも、仏さんはそうした努力を見守っており、ときに支えてくれることがあるというのです。

 「如来は無量劫に、時として乃ち世に出興す」るのです。「(仏は)一瞬のうちに過去・現在・未来の一切のものに通じ、衆生の能力・性質を知り、教化すべきように教化する」、「(つまり)衆生の心の煩悩と、かれらのさまざまの行為の善悪と、彼らの願いとをすべて知り、かれらのために正しい教えを説く」のです。

 そして、ときに仏さんは奇跡をもおこすというのです。すなわち、「仏は自分の口から八万四千の美しい光を放ってあらゆる世界を隈なく照らし、無数の煩悩を取り除く」というのです。そして、「この教えを聞いて喜び、信心を起こし、疑いを捨てる者は、すみやかに無上の道を完成し、仏たちと等しい(境地に到達する)」のです。1921年2月16日に、宮沢さんにとってのその日が来るとの希望と期待を抱いたのではないでしょうか。

 宮沢さんの日蓮さんへの信心行動のボルテージが一気に上昇していきます。1921年1月中旬の保阪さんへの手紙には、「恐ろしさや恥づかしさに顫えながら」、「(その夜月の沈む迠坐って唱題しやうとした田圃から立って)花巻町を叫んで歩いたのです」。その夜とは、日蓮さんの「竜ノ口御法難六百五十年の夜(旧暦)」でした。

 そして、同じ年の1月には、居ても立っても居られずとうとう意を決して国柱会へと上京することになります。同年1月30日の関徳弥さんへの手紙でそのときのことを次のように伝えています。

 「何としても最早出るより仕方ない。あしたにしやうか明後日にしやうかと二十三日の暮方店の火鉢で一人考へて居りました。その時頭の上の棚から御書が二冊共ばったり背中に落ちました。さあもう今だ。今夜だ」と、とっさに上京の挙にでたのですと。宮沢さんにとって「御書が二冊共ばったり背中に落ち」たできごとは、いよいよ成仏を成し遂げるために仏さんから呼び出されたとの徴だったのではないでしょうか。

 そして宮沢さんにとっては、自分が成仏することがこの世界の一切の生命を救う道でもあったのです。それは、自己と自分を取り巻くすべての世界との関係をどのようにとらえるのかということに関係しています。私たちの心的活動は、私たちを取り巻くすべての世界の過去・現在・未来の出来事すべてを反映・包み込んでいるという、とくに日蓮さんが強調していたといわれる「一念三千大千世界」というとらえかたを、宮沢さんは心から信じていたのだと思います。宮沢さんにとっては、「わが成仏の日は山川草木みな成仏する」日となるはずなのです。

 心友保阪さんへの手紙でそのことを確認しておきましょう。「私は愚かな鈍いものです 求めて疑つて何物も得ません 遂にけれども一切を得ます 我れこれ一切なるが故に悟った様な事を云ふのではありません 南無妙法蓮華経と一度叫ぶときには世界と我と共に不可思議の光に包まれるのです」(1918年3月20日前後)。

 「私は前の手紙に階書で南無妙法蓮華経と書き列ねてあなたに御送り致しました。あの南の字を書くとき無の字を書くとき私の前には数知らぬ世界が現じ又滅しました。あの字の一一の中には私の三千大世界が過去現在未来に亘つて生きてゐるのです」(同年6月27日)。

 そして、1921年1月中旬ごろの手紙で、以前の手紙で書いた「不思議の光」の意味することについて次のように書き送るのです。「すぐもう私共一同の前に、鋭い感覚を持った生物が、数万度の高熱の中に封ぜられ一日に八万四千回悶きながら叫び乍ら生れ、死に、生れ死にしなければならないといふはっきりした事があるのです」と。

 そして、保阪さんに呼びかけます。「一緒に一緒にこの聖業に従ふ事を許され様ではありませんか。憐れな衆生を救はうではありませんか」というように。NHKの宗教の時間の「『観無量寿経』をひらく」の講師であった釈撤宗さんによれば、生前の行いが死に際して、「上品上生の人は、大勢のお迎えとともに浄土へ往生して、ただちにさとりを得ます」が、「中品下生」の人は7日間、「下品上生」の人は49日間、「蓮華の中に閉じ込められる」ことで浄土に生まれ変わることができるのだそうです。

 上記の宮沢さんの手紙の文章はそうした浄土への生まれ変わりの話を、菩薩道における生まれ変わりの話として応用したのではないでしょうか。そのように理解してみたのですが、しかし、それでも宮沢さんが本当にそうした生まれ変わりの奇蹟を信じていたのか、にわかには信じられない気持ちも残ります。

 

          竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン

日蓮さんの教えを信じ膨らみゆく夢・希望・期待(1)

 社会変革への社会的風潮が高まる中、宮沢さんはなぜ自分の一生を懸けようとするほど国柱会へ傾倒していったのでしょうか。正確にはなぜ日蓮さんの教えに傾倒していったのでしょうか。結論から言えば、それは、日蓮さんの教えに従ってゆけば、自分が苦しむ一切の衆生を救える真の菩薩になれることを心から信じたからではないかと推測します。日蓮さんはそれだけの神通力をもった人であると信じたのだと思います。

 その当時宮沢さんは人を救うということに関して自分は全くの無力な存在であると感じていたのではないでしょうか。何と言っても自分は生存競争の落伍者だと自認していたくらいですから。そうした宮沢さんに夢・希望・期待をもたせてくれたのが日蓮さんだったのだと思います。無力だったからこそ人から見れば非常に荒唐無稽なことを信じることができたのだと感じます。

 宮沢さんは心友であった保阪さんと二人だけで岩手山に登山し、二人力合わせて真の神の国を建設することを誓ったと言われています。『宮沢賢治の青春 〝ただ一人の友〟保阪嘉内をめぐって』の著者である菅原千恵子によれば、真の神の国を、宮沢さんは「まことの国」、そして保阪さんは、「パラダイス(ハッピィ・キングドム)」と呼んでいたそうです。その神の国の「建設に命を捧げようと」二人は誓ったというのです。

 ただそのときは、二人には神の国を創るほどの力はないと自認し、二人力を合わせてその力をつけるために勉強していこうとも誓ったのではないかと思います。1918年3月、同人誌『アザリア』へ掲載した作品によって虚無主義者であると疑われたことで心友である保阪さんが高等農林学校から退学処分をうけます。そのことを帰省中でまだ知らない保阪さんへ退学処分の件を知らせる手紙を送っています。1918年3月14日前後の日付と推定されているその手紙の中で宮沢さんは、保阪さんに次のように呼びかけています。

 「実は私はたとへあたりが誤つてゐるとは云え足らぬ力でともするれば不純になり易い動機で周囲と常に争ふことは最早やめやうと思ひこれから二十年ばかり一生懸命にだまって勉強しやうと覚悟してゐました。……たゞ私は呉々も御願致します。これから二十年間一緒にだまつて音もなく一生懸命に勉強しやうではありませんか」と。

 さらにその一週間後に手紙を書き、重ねて次のように呼びかけています。「私共が新文明を建設し得る時は遠くはないせうがそれ迠は静に深く常に勉め絶えず心を修して大きな基礎を作つて置かうではありませんか。……私共は只今高く総ての有する弱点、列罅を挙げる事ができます。けれども『総ての人よ。諸共に真実に道を求めやう。』と云ふ事は私共が今叫び得ない事です。私共にその力が無いのです」と。

 これら二つの手紙だけでも、心友である保阪さんを誤った虚無主義の考えから救いたいという宮沢さんの必死の叫びが聞こえてきます。同時に「神の国」建設のための力をつけたいという願いも伝わってくるのです。

 そうした夢をもっていた宮沢さんに朗報が届きます。それは1920年9月に田中さんが創刊した日刊新聞の「天業民報」による日蓮さん降誕700年に関する記事だったのではないかと推察します。宮沢さんが最初に目にした記事がそれだったかどうかわかりませんが、宮沢さんが注目した内容がわかるものを、1921年2月18日には保阪さん、そして19日には宮沢友次郎さんに手紙という形で送っています。それがどのようなものであったか、友次郎さんへの手紙を引用しておきたいと思います。

 「虔んで申し上げます 絶対真理妙法の法体は恰も七百年前に日本の国に人身を以て生まれまし自ら諸難を忍従なされ自ら無上の法を説かれ自ら筆をとり給ひました この摩訶不思議をお索ね下さい

本化日蓮聖人           世間の諸の焦燥悶乱、憂

  斯の人世間に行じ給ひて    非苦悩 今し輝く

  能く衆生の暗をば滅す     法悦を成じ

                 緑よ緑よ 焦赭の砂漠

の涯なき熱脳 直ちに清涼鬱蒼の泉地と変ぜよ

  願はくは 世界の栄光 地球の大燈明台たる天業民報をばご覧下さい。」

 ほぼ同じ内容の手紙を1日前の日付で保阪さんにも送っていたのです。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン

閉塞と生存競争・争いごと激化という時代状況

 宮沢さんは、なぜ自分の一生を懸けようとするほど国柱会に夢中になったのでしょうか。それは、国柱会こそが当時の「乱れた」社会を変革し、宮沢さんの夢であった仏国土建設を実現してくれると期待したからではないでしょうか。しかもその実現の時は真近に迫っていると感じていたように思えます。いよいよ自分が必要とされ、活躍できる場がえられるとの希望が膨らんでいたのではないかと推測します。

 それだけ当時の時代と社会状況は何らかの社会変革へ向けての機が熟しつつあったのです。当時第一次世界大戦後の空前の経済的状況が後退し、世界恐慌の兆しが見えてきた1920年代末以降になると日本は、経済的・政治的に暗いトンネルの中に突入していくことになります。

 労働運動・争議や農民運動・小作争議が頻発し、民主主義、自由主義社会主義思想の影響も広がりを見せていました。しかし、一方では、それらの取り締まりと抑圧・弾圧の政治的動きと体制強化もより一層強さと厳しさが増大していたのです。

 そうした時代だったからこそ、何とか現状を打破し、新しい社会建設の構想や動きも大きくなっていたのです。世界史的にみれば、1917年にロシア革命が起こり、国内的には、1918年に人々の生活苦を背景とする米騒動という民衆運動が起きています。さらに政治的には、1922年に日本共産党が結成されています。1923年には、関東大震災が起き、世情・政情がより不安定化していくのです。

 田中さんが国柱会を創設するのは1914年のことでした。また北一輝さんは、1919年に『日本改造法案大綱』を発表しています。宗教関係の類似の動きとしては、同じく1919年に大本教が『大本神論火の巻』を発刊しますが、すぐに発禁処分となっています。民間の動きとしても、1918年11月に、武者小路実篤さんらが「新しき村」を宮崎県に建設していました。(以上、吉田さんの年表によっています。)

 こうした時代状況を人々はどのように受け止めていたのでしょうか。盛岡中学校の先輩であった石川啄木さんは、「閉塞」と感じていたように思えます。すでに1910年に起稿された「暗い穴の中へ」という作品がその心情を示しています。石川さんは書いています、

 「何の変化の無い、縛られた、暗い穴の中に割膝をしてぎつしりと坐つてゐるやうな現実の生活に、……一人位は、何百人あるか何千人あるか知れぬ東京の運転手の中(うち)に、全く無目的に全速力を出して、前の車を二台も三台も轢潰(ひきつぶ)し、終(しま)ひに自分も車台と共に粉微塵になつて死ぬ男が、あつてもよいやうに思われた」(『啄木全集 第四巻』)のですと。

 宮沢さんはといえば、人々が生存競争と争いごとに巻き込まれ苦しむ状況を感じ取っていました。それは、1918年9月の保阪さんへの手紙の記述です。生活が厳しい世の中の中で、「暖かく腹が充ちてゐては私などはよいことを考へません しかも今は父のおかで暖く不足なくてゐますから実にづるいことばかり考へてゐます」という文章に続く文がそれになります。

 「私の世界に黒い河が速にながれ、沢山の死人と青い生きた人とがながれ下って行きまする。青人は長い手を出して烈しくもがきますがながれて行きます。青人は長い長い手をのばし前に流れる人の足をつかみました。また髪の毛をつかみその人を溺らして自分は前に進みました。あるものは怒りに身をむしり早やそのなかばを食ひました。溺れるものの怒りは黒い鉄の瓦斯となりその横を泳ぎ行くものをつヽみます。流れる人が私かどうかはまだよくわかりませんがとにかくそのとほりに感じます」と。

 また宮沢さんは高等農林学校時代に保阪さんをはじめとする友人たちと『アザリア』という同人誌を発行していました。そして、そこに「『旅人のはなし』から」(『新校本宮澤賢治全集』)という物語作品を発表しています。その物語で、「旅人はある時、『戦争と平和』と云う国へ遊びに参りました」。「その国の広い事、人民の富んでゐる事、この国には生存競争などヽ申すようなつまらない競争もなく労働者対資本家などヽいふ様な頭の病める問題もなく総てが悦び総てが真であり善である国でありました、決して喜びな〔が〕ら心の底で悲しむ様な変な人も居ませんでした」、という宮沢さんが追い求めていたであろう国の姿を描いていたのです。

 

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仏国土建設の夢熱に浮かれて

 宮沢さんは、なぜ、「世界全体の幸福」を探求するという自分の使命感や虫にさえ慈悲を感じる感性をもつような人だったにもかかわらず、戦前の侵略戦争を唱導し、躊躇なく悪人を殺せというような「無慈悲・酷薄」な主張をしていた田中さんの率いる国柱会に夢中だったのでしょうか。

 ただその時期はかなり短期間のことでした。吉田さんが作成した年表でその軌跡を簡単に辿っておきたいと思います。宮沢さんが23才であった1919年の1月に「国柱会館を訪れ、田中智学の講演を二五分聞く」ことをしています。妹のトシさんが肺炎で入院した知らせを受け、看病のため上京したときのことでした。

 1920年の10月には、「国柱会に入会、花巻の市内を唱題して歩く」という、回りの人たちから「奇行」と見られる行動を起こしています。そして、ついに、1921年1月に「上京、国柱会理事高知尾智耀に会う。印刷所の校正係として働きながら国柱会館に連日通い奉仕活動をする」という日々をおくっています。

 しかし、同じ年の8月には、「トシの喀血の知らせを受け、書きためた原稿をトランクに入れ、帰宅」しています。その後国柱会の活動には直接関わることはなかったということです。

 しかし、国柱会への入会時にはその思いは熱狂的なものでした。友人の保阪さんに入会を知らせた手紙にはその熱い思いが記されています。「国柱会信行部に入会致しました。即ち最早私の身命は日蓮聖人の御物です。 従って今や私は 田中智学先生の御命令の中に丈あるのです。 ……田中先生に、妙法が実にはっきり働いてゐるのを私は感じ私は信じ私は仰ぎ私は嘆じ 今や日蓮聖人に従い奉る様に絶対服従致します。御命令さへあれば私はシベリアの凍原にも支那の内地にも参ります。乃至東京で国柱会館の下足番をも致します。それで一生をも終わります」(『校本宮澤賢治全集』)と。

 宮沢さんはなぜこのとき国柱会に対しそれほどまでに夢中になったのでしょうか。この時期は宮沢さんの生涯の中で言えば、高等農林学校卒業後社会との接点を失って悶々のした日々をおくっていた苦悩する時期と重なっていました。その苦悩せる焦りが宮沢さんを国柱会へのファナティックな信仰に走らせたとも言われています。

 『明日への銀河鉄道―わが心の宮沢賢治』の著者である三上さんはそのことを次のように論じています。「苦悩の深まりの中、法華経への信仰はますますファナティックなものになっていった。もはや賢治を支えるものはそれしかなかった。賢治は次第に心の余裕も失い、人間的な広さも失ってゆく。町内を『何妙法蓮華経』の題目を大声で唱えて歩く姿も見られた。浄土真宗の信仰者である父との宗教上の対立もはげしくなっていった」のですと。

 『塔建つるもの―宮沢賢治の信仰』の著者である理崎さんは次のように論じます。「大正デモクラシーの時代は社会主義が隆盛で、労働者の貧困は搾取(さくしゅ)ゆえ、との思想が一般的になっていた。賢治は、家の質屋を訪れる貧しい農民たちをみて、この思想を実感として理解したであろう。貧しい人々の上前(うわまえ)をはねる、その収益が自分の生活を支えていると思うと、居ても立ってもいられなかったに違いない」のですと。

 三上さんと理崎さんでは「苦悩」とは何かという点で強調する中身が違いますが、すなわち、三上さんは進路問題であり、理崎さんは搾取者という被告意識という違いがありますが、苦悩する意識がファナティックな信仰行動にはしらせたという視点では共通しています。しかし、宮沢さんが国柱会に夢中になったのはそれだけのことだったのでしょうか。

 

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