シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

トルストイさんの都会の貧困者救済論

 宮沢さんはトルストイさんから多くの影響を受けていたのではないでしょうか。とくに人を救うこととはどのようなことか、人を救う人はどのような人物で、どのように生きなければならないのか、そして人を救うためにどのようなことをしなければならないのか等について折に触れ参考にしていったのではないかと思います。

 トルストイさんはそれらのことを「人生論」の中で論じています。すなわちトルストイさんの「人生論」は人を救うということに関する考察に捧げられているのです。その中でトルストイさんがとくに強調していることは、経済的に富んでいるものが貧しい人たちに単に金品を与えるだけという救済は何らの救いにもならないだけでなく、最悪のものになりかねないということです。なぜなら、その救済法は、金品を与えられた人の自尊心を挫くだけでなく、他者や社会、そして自己に対する思いさえにも深刻な悪意を抱かせるものになってしまう可能性が大きいからなのです。

 その「人生論」の題名は、「さらば われら 何をなすべきか」です。それは、田舎暮らしで、貴族出身のトルストイさんがモスクワという大都会で暮らすようになるところから話が始まります。トルストイさんがモスクワに暮らし初めて最初に気付いたこととは、乞食が異常に多いことでした。しかも、田舎の乞食と違って物乞いをしないのです。なぜなら、モスクワでは、「乞食で溢れているのに物乞いが禁じられて」いたからなのでした。

 そうした光景を見たトルストイさんは救済行動を実行します。「人々に対する同情と自己に対する嫌悪感」から、「私は自分が計画した仕事――ここで私が出会う人たちに慈善を施すという――を遂行したい希望に頭がいっぱいになっていた」。「慈善を施す――困弱者に金をあたえること――のはじつに立派なことで、当然、人々に対して愛情をいだくようになるはずと思われた」のです。

 しかし、「その結果はこれと逆になり、この仕事は私のうちに、人々に対する悪意と、彼らを非難する気持ちをよび起こしたの」(中村白葉・中村融訳『トルストイ全集16』)でした。というのもこの種の「慈善」が「慈善」を受けた人たちを幸せにし、自分たち自身の力で生活できるようにすることがなかったからなのです。

 むしろ人からの施しで生きなければならない惨めさを増幅するだけでなく、豊かな人を羨み、それらの人たちからもっとお金を引き出そうと貧しい人たち同士で争い、より狡猾的になり、さらには徐々に堕落させてしまうものだったことが分かってくるのです。トルストイさん自身のことばを引用しておくとするならば、「慈善」を受けた人たちは、

 「金持ちのそばで、彼らのように、勤労によらず、さまざまな奸策を弄して、他人の集めた富を取り上げて暮らすことを覚え込み――そのあげく、堕落し、滅びてゆくので」した。それが、トルストイさんが「望みながらも救い得なかった都会の貧困というものなの」でした。

 ではなぜそのようになってしまうのでしょうか。そして都会に住む貧しい人たちすべてがそのような「堕落者」たちだというのでしょうか。それらの疑問を解くため、トルストイさんは、「貧民の巡回訪問をはじめ」ます。そして、「思いもよらぬことを目撃した」のです。それは、一方で、「私の助けなど考えてもいないような人々に出会った」ことでした。「彼らは労働者で、労働と困苦になれ、したがって私などよりははるかにしっかりと生活の中に立っていた」のです。

 しかし、トルストイさんは、「他方では、私は自分では救い得ない不幸者たちに出会った」のです。「私が見かけた不幸者たちの大半は、ただ自分のパンを稼ぐ能力や、意志や、習慣を失ったからこそ、不幸」になっていたのです。そこで主人公は、自分がどのような存在であるかということを知ります。

 すなわち、「その連中は私とまったく同類だ」ということを知るのです。自分は、自分では労働することなく、他人が生産した富に寄生して生活している。その私がその富で貧しい人を救おうとしている。その行為は何と偽善に満ちていることかということをトルストイさんは知るのでした。

 そして、トルストイさんは問います。「都会で生計を立てる」という言葉」には、「なにかそこには奇妙な、冗談に似たものがある」のはなぜだと。というのも、「森や、草原や、穀物や、家畜や、地上のありとあらゆる富のある場所」は田舎なのです。なぜ人々は、その田舎から、「木も、草も、土地もない、ただ石と埃(ほこり)だけしかないような」都会にやってくるのだろうかと問うのです。

 同時にトルストイさんは田舎での懐かしい生活を思い出します。田舎では私は、貧民のためにごくわずかな援助でも人々に利益をもたらし、私の周りには愛と友和の雰囲気をかもし出し、その中では、私も己の生活の不条理を意識する良心の呵責を鎮(しず)めることができ」ていたことを。そして、このトルストイさんは、「仕事を全部放擲して、いまいましい気持ちをいだきながら田舎に帰ってしまった」のです。

 

          竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン

神に救われすべてを捨てて百姓になったトルストイさん

 トルストイさんは、生きる意味を失い、自殺しかねない状況となった人生上の危機をどのように乗り越えていったのでしょうか。そして、そのことによってどのような人生上の転換を経験することになったのでしょうか。ジェイムズさんの著作に依拠してその軌跡を辿ってみたいと思います。蛇足ですが、ジェイムズさんが論拠としている文章は、トルストイさんの全集の中では、『宗教論上』の「懺悔」がそれに当たります。

 ジェイムズさんは論じています。「徐々にトルストイは次のような信念を固めるにいたった――そこまで達するのに二年かかった、と彼は言っている――自分が心を悩ましてきたのは、生活一般でも普通人の普通の生活でもなく、上流の知的、芸術的階級の生活であり、彼自身がいつも営んできた生活であり、頭脳的な生活であり、因襲と技巧と個人的野心の生活であったという信念を。彼は間違った生き方をしていたのであった、だから、それを変えねばならなかった。動物的要求のために働くこと、虚偽と虚栄とを放棄すること、公衆の困窮を救うこと、簡素であること、神を信ずること、そこに幸福はふたたび見いだされるであろう」というようにです。

 ここで「動物的要求のために働くこと」とは、生きるために自分自身の力で、自然を相手に、自分の体と肉体を使って労働するということではなかったかと思います。そうした中、「早春のある日、私は森のなかにただ独りでいて、そのふしぎな物音に耳を傾けていた。すると、私の思いはこの三年間の間つねに私が没頭していたことに――神の問題に、戻って行った」のです。

 そして、「あのお方は、その方なしには人間がいきられないあのお方は、ここにおられるのだ。神を認めることと生きることは同一のことなのだ。神は生命なのだ。そうなら、さあ!生きよ、神を求めよ、神なしには生命はないであろう」という啓示を受け取ったのです。それは、ジェイムズさんが主題としていた回心がトルストイさんに起こった瞬間だったのです。

 「このことがあってから、私の内部でも私の周囲でも、いままでになかったほど万事がうまくはかどった。そしてその光明がまったく消え去るようなことはなくなった。私は自殺から救われた」のです。

 そして「だんだんと、気のつかないうちに、生命のエネルギーが戻ってきた。そして……それは私が昔、子供のころにもっていた信仰の力であり、私の生活の唯一の目的はもっと善く(、、、、、)なることだという信仰であった」のです。

 そうしてみると、「因襲的な世間などというものはけっして生活ではなくて、生活の真似事(パロディ)であり、それに付随する余計なものがわれわれに真似事が真似事であることを知らせないようにしているまでのこと」なのです。そのことに気づき、「私は因襲的な世間の生活を棄ててしま」い、「農夫の生活を始めた」のです。

 トルストイさんは農夫の生活をすることで、「正しく幸福であると感じた、それ以来ずっと、少なくともある程度まで、そう感じていた」というのです。国柱会を去ろうとしたとき、宮沢さんは、できればトルストイさんがたどった同じ道をすぐにでも歩み始めたかったのではないかと推測します。しかしそうするには宮沢さんには大きな壁が立ちはだかっていたのではないかと思います。

 そこでこれから少し、トルストイさんから影響を受けることで宮沢さんがどのような思考過程を辿っていったと考えられるのか、そのことに関して推測的に考察していくことにしたいと思います。

 

          竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン

幸福追求と宗教

 幸福追求と宗教の関係の探究者という点で、ジェイムズさん、トルストイさん、そして宮沢さんの三人は関係しているのではないでしょうか。「本統(まこと)の幸せ」をどこまでも探しつづけるというのが、帰花以降の宮沢さんの一貫したテーマでした。そのテーマ探究のために依拠したのが、ジェイムズさんとトルストイさんだったのではないかと考えます。

 トルストイさんは、「人生論」の中で、「私たちは、自分のうちなる生命を、幸福にたいする希求として知る。したがって、幸福にたいする希求としての定義をのぞいては、人生を観察することができないばかりでなく、見ることもできないのである」と主張しています。

 さらに、「私たちは、騎手と馬との結合のなかに生命のあること、馬の一群のなかに生命のあること、小鳥、昆虫、樹木、草にも生命のあることを知るので」あります。そのうえで、それら個々の生命がみな自分の幸福を願っていることを認めなければ、それらの個別性を理解することができないだけでなく、私たちにとって全世界は、「ひとつの無差別な運動と化し去っ」てしまうとトルストイさんは言い切ります。

 それぞれの幸福希求の生命世界の探究、それが宮沢さんの「法華文学」の隠れたテーマとなっていったのではないでしょうか。そして、ジェイムズさんは、この幸福希求と宗教との関係を、宗教意識を心理学的に考究している著作『宗教的経験の諸相』の中で論じているのです。ジェイムズさんは言います、

 「最高の幸福が宗教の特権である」のですと。それは、「あらゆる単なる動物的幸福や、あらゆる単なる現在の享楽から、はっきり区別されるもの」ですと。「ふつう私たちが幸福といっているものは、私たちが体験した災厄、あるいは私たちを脅かしていた災厄から、ほんの一時でも逃れえたことから生じる『安心感』なの」です。

 しかし、宗教的幸福はそうした災厄からの逃避や出会わないことへの僥倖感を超越しているものなのです。「宗教的幸福はもはや逃避など望まない。宗教的幸福は、外面的には、犠牲の一形式として災厄を認めはするが――内面的には、災厄が永遠に克服されていることを知っているので」す。

 またジェイムズさんは、その著書の中で何度もトルストイさんの言説や生活体験に言及し、自己の考察の参考にしています。そのひとつに、生きる意味を失い自殺しかねないところまで追い込まれた人生上の危機を、神への信仰によって乗り越えたその体験に関する言及があります。

 そのトルストイさんの人生上の危機は、(ジェイムズさんが引用している文章の)トルストイさんによれば、「外部の事情からはどう見ても私が申し分なく幸福であるはずの時期に起こった」のです。相思相愛の妻とよいこどもがいました。ひとりでに増大していく莫大な財産もありました。社会的名声もえていました。それゆえに、友人たちや見知らぬ人たちからの尊敬も集めていました。さらに、精神的にも、体力的にも充実し、「百姓たちと同じように草を刈ることもできたし、ぶっつづけで八時間も頭脳を使う仕事もでき」ていたのです。

 そうした人生上の絶頂期に、トルストイさんは突如生きる意味を見失ってしまうのです。「私は、私の生活上のいかなる行為にも、納得のゆくような意味を与えることができなかった。そして私は、そのことをそもそもの最初から理解していなかったことに驚いた。……人生とはただもう残酷でばかばかしいもの」となってしまったのです。

 ではトルストイさんはどうしてそのような深刻な人生上の危機に直面しなければならなくなったのでしょうか。ジェイムズさんの見立ては次のようなものでした。

 「私の解釈するところでは、彼の憂鬱は、もちろんそれもあったには相違ないが、単に彼の気質の偶然的な曇りに過ぎぬものではなかった。それは彼の内的な性格と外的な活動や目的との間の衝突によって必然的に誘発されたものである。文芸作家ではあったが、トルストイは、現代の洗練された文明の空(むな)しさと不まじめさ、貧欲さと錯雑さとに対して深刻な不満をいだき、永遠の真実はもっと自然でもっと動物的なもののうちにあると信じた原始的な剛直な人々の一人であった」のですと。

 このジェイムズさんの考察は、宮沢さんの生き方を探究するのにも、大いに参照になるものではないでしょうか。またそのような人生上の危機をトルストイさんがどのように克服していったのかの経験も、国柱会を去って今後どのように生きるべきかについて悩んでいた宮沢さんにとって大いに参考になるものだったのではないかと考えます。

 

          竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン

「法華文学」創作への船出

 国柱会の一員として仏国土建設に生涯を捧げるという夢を断念せざるをえなくなった宮沢さんは、法華経の流布者としての活動に邁進していくことになります。その活動とは、いわゆる「法華文学」の創作のことになります。通説では、それを薦めたのが、宮沢さんが国柱会の門をたたいたとき応対してくれた高知尾智耀さんだったと言われています。午前中4時間だけ印刷所での仕事をして、その後図書館で創作活動を続けています。

 ではこの上京時に宮沢さんはどのような作品を創作していたのでしょうか。このことに関しては、『宮沢賢治『初期短篇綴』の世界』の著者である榊昌子さんが詳細に論じています。それはその著書の第十二章「宮沢賢治は東京で何を書いたか」というものです。榊さんによれば、そのときの作品に関する先行研究として、恩田逸夫さんの論考「宮沢賢治における大正十年の出郷と帰宅――イーハトブ童話成立に関する通説への検討を中心に――」があり、その論考を参照しているそうです。

 そしてその論考は、「種々の根拠を示して八月中旬帰郷説を提唱し」、「滞京中の作と確認できるものが極めて少ないことを」明らかにしているとのことです。それまでは、帰郷は9月とされ、「滞京中、ひと月に三千枚もの原稿を書き、花巻に提げて帰ったトランクには、ぎっしり童話の原稿が詰まっていた」と言われていたのです。

 滞京中の作品群は、以下のものだったそうです。短歌49首と短唱。後者は、「表紙に『東京』と書かれたノート」があり、「短歌九首と二十の短唱、散文タイトル・メモが書かれている」といいます。次に散文です。「電車」と「床屋」そして、「滞京中の散文作品については、前記『『東京』ノート』に、次のようなメモがある」そうです。「図書館(ダーケル博士)」と「床屋の弟子とイデア界」がそれらです。

 さらに、「戯曲」です。それは、断片のものであり、「蒼冷と純黒」で、「一度は清書された作品が、何らかの理由で破棄され、原稿用紙二枚分……が、書簡用紙に転用されて残ったものであった」のです。そして、「童謡と童話」です。前者に関しては、「『愛国婦人』大正十年九月号に掲載された童謡『あまの川』をさすものとみられ」るそうです。後者に関しては、「蜘蛛となめくぢと狸」と「双子の星」です。しかし、それは、「在京中に書かれた作品の中で最大の謎となっている」と言います。なぜなら、それらの二作品は、「大正七年八月頃に」、兄から「読んで聞かせられたことをその口調まではっきりおぼえている」との弟清六さんの証言があるからです。

 榊さんのご著書を読むまでは、宮沢さんの童話作品のほとんどは国柱会に入会し東京に滞在している間に創作されたものであるというように漠然と認識していましたので、実際はそうではなかったということを知って、驚きました。同時に、宮沢さんに関する研究は本当に微に入り細に入りとことん研究しつくされているのだなと感じた次第です。

 では、国柱会の一員として仏国土建設に邁進するという願いを断念せざるをえなくなった中での「法華文学」とはその後どのような展開を遂げていくのでしょうか。俄か勉強でいつどのような形でその影響が作用していったのかについてはブラックボックスなのですが、その展開の方向性に大きな影響を与えたのは、ウィリアム・ジェイムズさんとレフ・トルストイさんだったのではないでしょうか。

 ところで、宮沢さんの文学に影響を与えた人はあまたいる中で、なぜジェイムズさんとトルストイさんの二人だけを取り上げるのでしょうか。しかも、ジェイムズさんはアメリカの心理学者の方ですし、トルストイさんはロシアの小説家・思想家の方で、二人には何らの関係もなさそうに見えるのです。

 それにもかかわらず二人は、宮沢さんの「法華文学」のテーマ、方法、そして生き方にまで大きな影響を与えていったのではないかというのが、ここでの仮説なのです。それは、「苦しむ一切の衆生を救う」という宮沢さんの本願の東京時代以降の行方と大きく関わっているからなのです。

 

          竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン

父の助け舟―父と二人だけの旅―

 国柱会での活動に行き詰まりを見せていたとき、正次郎さんは賢治さんに対しどのような行動をとったのでしょうか。残念なことにそのときのことに関しては、門井さんの『銀河鉄道の父』の中では描かれてはいません。この時期の正次郎さん-賢治さんの親子関係に着目して詳しく論じているのは、栗谷川虹さんです。そして、その著作は、『宮沢賢治の謎をめぐって―『わがうち秘めし異事の数、異空間の断片』』です。

 賢治さんが上京して後、「正次郎は心配して何度か小切手を送ったが、賢治はそのつど受取人の名を消し『謹んで抹(まつ)し奉る』と書いて送り返していました」。というのも、上京後すぐに期待していた日蓮さん降誕700年の奇蹟が実現せず、あたかも花巻に帰りたい気持ちがあるかのような手紙を正次郎さんに送っていたからです。その手紙とは、1921年2月24日の日付のものでした。

 そしてその手紙には、「寒い処、忙しい処父上母上はじめ皆々様に色々御迷惑をお掛け申し訳けございません。……御帰正の日こそは総ての私の小さな希望や仕事は投棄して何なりとも御命の儘にお仕へ致します」と記されていたのです。あれだけ熱狂していた国柱会に奉仕するという姿勢が全く消え去っています。

 正次郎さんは、心配して送ったお金を返送してくる行為に対しても怒って賢治さんを突き放してしまうようなことはありませんでした。むしろ賢治さんには、本心では父を頼り花巻に帰りたい気持ちもあることを察してか、賢治さんの気持ちを解きほぐすため二人だけの旅の提案をしたのです。栗谷川さんによれば、

 「四月初め正次郎自身が上京し、伊勢参りから比叡山伝道大師千百年遠忌(おんき)、南河内磯長(しなが)村叡福寺聖徳太子千三百年遠忌参詣の関西旅行に誘う」のでした。賢治さんも喜んでこの提案を受け入れ、父正次郎さんに同行したと言われています。

 この旅がどのようなものであったのか、もし関心があれば栗谷川さんの著作のページをめくっていただければと思います。ここでは、国柱会における仏国土建設の活動への失望を乗り越え、その後どのように生きていくかということを、賢治さんは旅をとおしてどのように考えたのだろうかということに関してだけ、参照しておくことにします。

 この点に関して、栗谷川さんはこの旅の最後の日に詠まれた三首の短歌が重要なヒントを与えてくれると言います。その日、「八日、関西での最後の日です。……二人は興福寺より春日大社に参詣、奈良公園を通って、さる沢の池にでました」。そこで詠まれた三首の短歌が以下のようなものでした。

 さる沢のやなぎは明くめぐめども、いとほし、夢はまことならねば(B798)

 さる沢のやなぎはめぐむこのたびこそ、この像法の夢をはなれよ。(B799)

 さる沢の池のやなぎよことし又むかしの夢の中にめぐむか。(B800)

 ではこの三首の短歌はどのようなことを意味しているものなのでしょうか。栗谷川さんは余白のメモをも参照して次のように解説しています。賢治さんが上京後の出来事をどのように振り返ったのかを知るために重要と思われますので、長文となりますが中心となるところを引用しておきたいと思います。

 「注目すべきは『その像法(ぞうほう)の日は去りしぞと』です。すでに『像法の夢』は無いのだ、と賢治は何度も繰り返しているのです。……夢から覚めよ、と賢治は自分自身に向かって言っている。メモの書入れも像法は砂に没したと否定されています。また『まことならねば』は、後の心象スケッチ『春と修羅』の『まことのことばはここになく』にも通じていると思われます」。

 「像法は、正法後の五百年間で、教えと行だけがあって、証を得るものがなくなり、末法は像法後の一万年で、教のみがあって、行も証もない時代となる」のです。すなわち、国柱会の時代は末法の時代となっており、仏国土建設の教はあるが、それを現実化する行はすでに無くなっていると賢治さんは考えたのです。

 そのことは、賢治さんはお父さんとの旅を通して、国柱会の一員として仏国土建設に生涯を懸けることを断念する気持ちをかためたことを意味していたのではないでしょうか。そして、いつ花巻に戻っても受け入れてもらえるとの感触ももつことができたのではないかと思います。

 

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宮沢賢治さんの父という存在

 国柱会に入会し、日蓮さんの力で菩薩道を完成させるとともに、仲間をえることによって仏国土建設に生涯を懸けようとした宮沢さんの目論見は、あっけなく行き詰ります。しかも、この度の上京は、一生故郷である花巻には帰らないとの宣言をしてしまっていました。目論見が行き詰ったからといって、おいそれとは花巻には戻ることもできない状況だったのではないでしょうか。この窮地を救ったのが、宮沢さんのお父さんである正次郎さんでした。

 ところで、宮沢家における正次郎さんと賢治さんの親子関係は、社会学的に見ても非常に興味ある関係性であったと言えます。なぜならば、岩手県は、日本の家父長的家族制度の土地柄の地域であったからです。親方・子方関係を基礎とする家制度という日本の家族制度に関する研究者であり、『日本家族制度と小作制度』という社会学の名著を生み出した有賀喜左衛門さんがその研究フィールドとしていた地域社会が岩手県でした。

 家父長的家族制度の下では、「厳父慈母」というのが理想的な親の在り方だったのではないでしょうか。父親という存在は、子に対して厳しく接し、これまで長らく伝えられてきた社会や家の掟を子の自由を束縛しても「しつけ」、型づけしていく役割を負っているものとされてきたのではないかと思います。しかし、宮沢さん親子関係はそうした家父長制的家族制度の下の親子関係のイメージとは程遠いと感じるのです。

 父親であった正次郎さんは、賢治さんの死後、賢治さんとの関係を、自由奔放な暴れ馬を地上に繋ぎとめておくことが自分の役割であったと語ったと言われています。すなわち、「早熟児で、仏教を知らなかったら始末におえぬ遊蕩児になったろうといい、また、自由奔放でいつ天空へ飛び去ってしまうかわからないので、この天馬を地上につなぎとめるために手綱をとってきた」(『校本宮澤賢治全集第14巻』)と語っていたのです。

 ただその手綱のとり方は非常に慈愛に満ちたものだったものであったと感じます。自分がよいと思うことを無理やりにでも押し付けるというのではなく、賢治さんを温かく見守り、賢治さんがやりたいと思ったことをできるだけ応援しようとしてきたのではないでしょうか。ただやりたいことすべてを賢治さんが言うがままに認めるのではなく、厳しい現実社会の先輩として、ノーを突きつけ、再考を求めたこともありました。さらに、賢治さんが何か困難を抱え、行き詰ったときには、賢治さんの自尊心を傷つけないように配慮しつつ、どうしたらよいかについての提案や代案を示し、提供していたのではないかと思います。

 個人的な感想になるのですが、正次郎さんの賢治さんに対する父親としての接し方は、なかなか社会的に受け入れられないという困難を抱えている我が子に父親はどのように接したらよいかについて非常に参考になるのではないかと考えます。

 そうした慈愛深い正次郎さんの父親像へ着目したのが、第158回直木賞作家の門井慶喜さんでした。門井さんは受賞作『銀河鉄道の父』の中で、正次郎さんの賢治さんに対する慈愛の深さを次のように描き出していました。それは、賢治さんが7歳のとき、赤痢に罹り命の危険に陥ったときのことです。正次郎さんは賢治さんを自分の命を懸けて必死に看病し、その命を救ったのです。

 「『病名は?』/『赤痢なんだと』/(賢治が、死ぬ)/一足飛びに、意識がその恐怖へ到達した。それだけは嫌だった。そんなことになるぐらいなら、/(私が、死ぬ)/この刹那(せつな)正次郎の心の何かが切れた。世間で当然とされる家長像、父親像がまるで霧のように消え去った」のです。

 「『賢治のめんどうは私が見る。看護婦ごときに任せられぬ』/『まあ、それでは……』/イチはことばを濁(にご)したが、あとにつづくのが、/――近所に顔向けができません、/……地方では、看護婦というのは要するに病室の女中にすぎなかった。/教育のない若い女がやる汚れ仕事、それが家長がやるというのだ。イチは袖(そで)にすがるようにして」引き留めようとしたのです。

 正次郎さんの父親である喜助さんも正次郎さんを引き留めようとしましたが、それでも正次郎さんは賢治さんの看護行為を実行し、賢治さんの命を救ったのでした。その代償として、自分自身が赤痢に罹り、内臓をその後持病となるくらい弱めてしまったのです。

 賢治さんが赤痢に罹ったときの正次郎さんのとった行動が果たして門井さんが描写した通りのものであったかどうかは、まだ確実には分からないというのが本当のところでしょう。しかし、正次郎さんは深い愛情によって賢治さんの病気に向き合ったということは推測できるのではないかと思います。

 いくら息子とはいっても賢治さんは他人です。にもかかわらず自分の命を懸けてその命を救おうとした正次郎さんの姿勢は、潜在的な形であるかもしれませんが、自分の命を捨てても人のために行動するという人としての在り方のモデルとして、正次郎さんがとった行動は賢治さんの心の奥底に記憶として刻み込まれたかもしれません。

 では国柱会への入会という出来事のときに、正次郎さんはどのような形で賢治さんに向き合ったのでしょうか。

 

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人を救うとはどういうことか?

 ここであらためて人を救うということを宮沢さんはどのように考えていたのか確認しておきたいと思います。というのも、国柱会に夢中になっていた時には、自分が成仏さえできれば自動的にすべての人だけでなく、万物の存在を救うことができるかのように思っていたのではないかと感じるからです。「わが成仏の日は山川草木みな成仏する」とは、宮沢さんの有名な言葉です。

 普通は、人を救うと言えば、何らかのことで苦しんでいる、困っている、苦悩している人に対し、援助や支援の手を差し伸べてそれらのことから救ってあげる行為を思い浮かべるのではないでしょうか。そのためのNPO法人を組織したり、ボランティアで何らかの事柄に特化して活動しているのではないかと思います。

 宗教者の人たちも、自分たちが信じる教えを広めるということとは別に、上記のような具体的な救済活動を行うことがたびたびあります。ご自身も「副住職」に携わっている『慈悲(じひ)をめぐる心象(しんしょう)スケッチ』の著者である玄侑宗久さんは、仏教の宗派によってそうした具体的救済活動の形に違いが見られるのではないかという、そのことに関して社会学的には大変興味惹かれる考察を示してくれています。

 玄侑さんはよれば、「お寺にはじつに多くの浮浪者めいた人々が寄って」きます。その人たちに、「何宗のお寺がいちばん助けてくれますか?」と聞くと、多くは浄土教系統のお寺だと答えるそうなのです。他方、北海道で見聞したことを例に、「なにか自然災害などが起きたとき、……真っ先に大勢駆けつけるのは日蓮宗のお坊さん」ではないかと言います。その上で、玄侑さんは、仏教の「同じ慈悲と云っても自力聖道門と他力浄土門では違いがある」のではないかと考察しています。

 一方、宮沢さんの場合は、法華経の教えを流布すること、そして仏国土を建設することが人を救うことだったのです。保阪さんの場合は、「神の国」の建設が人を救うことだったのではないでしょうか。さらに、仏国土の建設、「神の国」の建設とは、具体的にはどのようなもので、どのようにして現実化していくのかということに関しては、保阪さんに関しては具体的なビジョンがあったようですが、宮沢さんに関しては、自分独自のビジョンはなく、国柱会だのみだったと思われます。

 では、保阪さんは、具体的にどのようなビジョンをもっていたのでしょうか。このことに関しては、『続・私の宮沢賢治』の著者である内田朝雄さんの示唆を参照します。内田さんはこの著書の中で、「保阪は、明治三十九年、四十三年の記録的な水害の惨状を眼にして、荒れ果てた村々を美田で埋め尽くすことを、未だ小さな小学生の自分の胸に誓ったという」ことを紹介しています。

 さらに、内田さんは、『宮沢賢治友への手紙』から引用する形で、「保阪は早くも、盛岡高農入学の目的を次のように定めていたことを紹介しています。その引用の文章とは、「農学を修めて故郷に帰り村長となる事。土地を改良し、農業副業を興し、多角経営、協同組合組織を基礎に模範農村を築く事。この理想村には、保阪が好きだった芝居を演ずる農民館、図書館、体育館から村立病院迄が存在する筈であった」というものです。

 この高等農林学校入学時の入学目的を見ていると、国柱会から離れ帰花し、1926年からは、「自炊生活を始め、農耕に従事する」、「羅須地人協会をつくる」、そして「肥料設計事務所を設ける」というような宮沢さんの活動のほとんどは、正確な形こそ違えていますが、保阪さんの若き日の自己の人生に関する将来設計図に含まれていたように思えてくるのです。宮沢さんのそれらの活動については今後の考察課題となりますが、興味深い「一致」です。

 しかしいずれにしても、国柱会への奉仕に期待と希望を失ってしまった今、今後どうしたらよいか、宮沢さんは本当に行き詰ってしまったのではないかと察せられます。家の者には一生帰らない、世話にもならないと宣言してしまっていました。事実、お父さんからの送金にも手をつけず、送り返していたときもあったと言われています。しかしこの窮地を救ったのは、またしてもお父さんだったようです。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン