シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

身近な人を大切に思い、寄り添い・見守り・支えるという修行道

 衆生の罪を一身に背負い、天から与えられた試練としての艱難辛苦に打ち克ち栄光にいたる道を歩むことで何が得られるのでしょうか。「カラマーゾフの兄弟」の「長老」のことばによれば、「そうあってこそ、我々の心は、飽(あ)くことを知らぬ、愛の法悦境に入るのですじゃ」。

 「その時こそ、我々の一人一人が愛をもって全世界を奯(か)ち得、涙をもって浮世の罪を洗うことが出来ますじゃ」とういのが「長老」の言われる回答です。すなわち、「浮世の罪が洗われる」ことができるということは、そこで、宮沢さんが夢見た、宮沢さん個人の悟りだけでなく、仏国土が現れ出るということでもあるということを意味しているのではないでしょうか。

 しかも、「長老」によれば、僧院で修行する者にはそうした使命が天から与えられているのです。一人の女性を争い、息子が父親を殺してしまうような人間的欲望に満ちているカラマーゾフの家族において唯一キリスト精神によって生きているアリョーシャさんに「長老」は次のように呼びかけていました。

 僧院は「お前のおるべき場所でない。……お前はまだまだ長く放浪すべき運命なのじゃ。……しかし、お前という者を信じて疑わぬから、それでわしはお前を娑婆世界へ送るのじゃ。お前にはキリストがついておられる。気をつけてキリストを守りなさい。そうすればキリストもお前を守って下さるであろう!」。

 「世間へ出たら大きな悲しみを見るであろうが、その悲しみの中にも幸福でおるじゃろ。これがわしの遺言じゃ。悲しみの中に幸福を求めるがよい。働け、撓(たゆ)みなく働」きなさいと。

 「雨ニモマケズ」を書きつけたとき、宮沢さんも、以前と変わることなく仏国土建設のために上述の「長老」の「働け、撓(たゆ)みなく働」けということばを心に反芻していたように思います。問題は、実際の実践活動の方向性ではないかと考えます。

 そのことに関するここでの仮説は、その方向性をめぐって、「雨ニモマケズ」執筆のときに180度の転換があったのではないかということです。社会学者の目でそのことを表現するならば、それは、既存の社会を改革し、社会すべての人が幸せとなる社会を創り出すことでひとり一人の幸せを実現する道から、ひとり一人の日常生活における幸せを実現していくことを通して社会全体の幸せを実現する道への転換である、となります。

 宮沢さん自身の作品史でそのことを言い表せば、「農民芸術概論要綱」の視点から「雨ニモマケズ」手帳の視点への転換ということでしょう。個人と社会との関係を探求する社会学のことばで言えば、社会全体の幸せの実現から個人の幸せの実現という視点から、個々人ひとり一人の幸せの実現を通して社会全体の幸せの実現を図っていくという視点への転換ということになるでしょう。

 「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」というのが「農民芸術概論要綱」の主張です。しかし、しかしです、「雨ニモマケズ」手帳の43から46頁にかけてその後の仏道修行の進め方が次のように記されています。

 「つまらぬ見掛け/先づ――を求めて/以て――せん/といふ風の/自欺的なる/行動/に寸毫も/委する/なく」

 「厳に/日課を定め/法を先とし/父母を次とし/近縁を三とし/<社会>農村を/最后の目標として」

 「只猛進せよ/利による友、快楽/を同じくする友尽く/之を遠離せよ」とです。

 これらの頁のノートの意味することとは、今後宮沢さんは、仏道修行のために身近な人を大切に思い、寄り添い・見守り・支えて行こうとする自己の覚悟をあらためて自分に言い聞かせているということではないかと考えるのです。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン

新たな仏道修行の道を求める思索

 ここまで宮沢さんの人生の歩みを尋ねてきました。それは一言で要約すれば、「すべての衆生を救う」ことに捧げようとした人生だったと言えるのではないでしょうか。そしてその道は、宮沢さん自身の仏道修行の道であり、ドストエフスキーさんの言う「無条件に美しい人間」となるための道でもあったのではないかと考えます。

 ただ具体的にどのような形の仏道修行を実行していこうとするのかという考えに関しては、羅須地人協会における活動を分岐点として迷いが生じ、いわゆる「雨ニモマケズ」を手帳に書きつけたころに180度転換しようと考えるようになったのではないかと推測します。

 そしてそのことは、仏または菩薩と衆生との関係性における宮沢さん自身の位置と役割意識の転換と言い換えることができるものと思います。「すべての衆生を救い」、宇宙の真理を我がものとするという志は変わらずにもちつづけていたでしょう。

 しかし、どのように救いの実践活動を行うのかについて転換しようとしたのではないかと考えられます。羅須地人協会・東北砕石工場における活動までは、神的・奇蹟的力(宮沢さんの場合は科学と経営才覚の力)によって人々のとくに経済的生活苦を改善し、楽しく生き生きと生きるための条件づくり活動に邁進しようとしています。

 より宗教的一般化して言えば、それは、人々の苦しみや危機を奇蹟力によって救うとともに、ご利益を与え、願い事を叶えてあげる働きであると思います。それは宮沢さんが自分自身に観音さまや阿弥陀さまの働きに類する働きを求めていたと言えるかもしれません。また、その働きには逆に醜い生き方をしているものに罰を与える働きを求めるという場合もあることだったのでしょう。

 そうした活動にのめり込んでしまったのは、目の前に困っている人、苦しんでいる人がいる場合や頼られた場合に放ってはおけない性格であったことと、宮沢さん自身の自己反省のことばによれば傲「慢」にも、自分もそのような力を少しはもっていると信じていたからかもしれません。その結果、自らを「敗残者」と認めなければならないような状況に直面せざるをえなくなってしまったものと思われます。

 そのため、病床の中で、あらためてトルストイさんやドストエフスキーさんを参考にしながら自分の仏道修行の道を見つめなおそうとしたのではないでしょうか。その際、彼ら二人が示しているものと宮沢さんが受け取ったものは、人間とはいかに自己中心的・傲慢で、しかし一方でいかに弱い存在であるかという人間観であったと思います。

 そして、彼ら二人が示したそうした人々を救う道とは、すべての人のどんな罪をも許し、それらの罪を自分が一身に引き受けて生きるというまたそれはそれで大変困難な、そしていばらの道と思える道ではなかったかと思います。

 その道に関しては、ドストエフスキーさんの「カラマーゾフの兄弟」の中では、キリスト教僧院の僧院長でみんなから「長老」と呼ばれている人の僧院関係者への死出の旅路の別れのことば(遺言)として次のように語られています。

 「皆さん、どうぞ互いに愛し合って下され。……そうしてまた衆生を愛して下され。我々がここへ来て、この壁の中に閉じ籠っておるからというて、そのために俗世の人より豪いという理屈はありませんじゃ。それどころか、かえってここへ来た者は、そのここへ来たということによって、自分が俗世の誰よりも、また地上に住む誰よりも一ばん劣ったものと自覚したわけになるのですじゃ」。

 「僧侶はこの壁の中に長く住めば住むほど、ますます痛切にこれを悟らねばなりませぬ。……さらに進んで自分はすべての人に対して罪がある」。「群衆の罪、世界の罪、個人の罪、一さいの罪に対して責任があるということを自覚したら、その時はじめて我々の隠遁の目的が達しられるのですぞ。なぜというに、我々はみな一人一人、地上に住むすべての人に対して、疑いもなく罪があるからなのですじゃ」。

 「それは一般の人に共通な世界的罪悪というようなものでのうて、おのおのの人がこの地上に住む一さいの人に対して、個人的に罪をもっているのですじゃ。この自覚は単に僧侶ばかりでなく、すべての人にとって生活の冠ともいうべきものであります。なぜというに僧侶は決して種類を異にした人間ではなく、ただ地上におけるすべての人が、当然かくあらねばならぬと思うような人間に過ぎませぬでな」。

 ただ僧侶(宮沢さんの場合は仏道修行者)は、そのことを自覚し、さらに進んで他のすべての人たちの罪をも引き受けようとする存在者にならなければならないのです。それが「修行」なのです。そして、その「修行」を通して、人々がお互いを愛し、自分の罪を悔い改める道に導くことができるようになると言うのです。キリストさんはその模範を示したことで「無条件に美しい人間」となったと言いたいのでしょう。

 ここまでかなり長く「長老」と呼ばれている相院長の最後の教説を参照してきましたが、ここで言いたいことは、宮沢さんが「カラマーゾフの兄弟」の作品を読み、直接その僧院長の教説に影響を受けたのではないかということではありません。ただ潜在的に、キリスト教のそうした思想を心に受け止めてきていたのではないかと考えるのです。

 そして、長く病床に臥せらなければならない状況の中で、「長老」の教説と同じ性格の施策を反芻していたのではないかと考えるのです。なぜならば宮沢さんが信奉している日蓮さんにも同じ思想が息づいていると言われているからです。

 この点に関して、『日蓮入門――現世を撃つ思想』の著者である末木文美士さんが次のように指摘しています。末木さんは言います、

 「さまざまな形をとって身に降りかかる不条理な苦難をどのように理由づけ、積極的な人生観に転じるかは、宗教の大きな課題である」。旧約聖書におけるその解決法は、神によって選ばれたユダヤ人の神によって与えられた試練を、信仰を堅持することで乗り越え、栄光を勝ち取る物語として提示していますと。さらに、つづけ

 「それに対して、日蓮の場合は、あくまで個人の問題として、輪廻の展開の中で理論化され」ています。そうした「苦難によって罪を贖うという贖罪の発想には、キリスト教との近似も見られる」のですと。

 そして、病床の中の幾度となく繰り返すそうした思索の後、宮沢さんが選ぼうとした仏道修行道こそ、法華経における常不軽菩薩に象徴される「忍辱」の道だったのではないでしょうか。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン

無条件に美しい人間の探究

 「完全に美しい人間を描くこと」が長編小説『白痴』を創作したドストエフスキーさんの意図でした。そこでここではさらに、ドストエフスキーさんが「完全な美しい人間」とはどのような人であると考えていたのか、少ししつこいかもしれませんがそのことを追及しておきたいと思います。幸い、読んだ『白痴』にはその「解題」があり、そのことに関するドストエフスキーさん自身の構想が紹介されています。

 それを参照して繰り返しになるのですが、その意図を実現することが如何に困難な事業であるかについてのドストエフスキーさんの告白を再度確認しておきたいと思います。なぜならば、小説で表現することだけでも非常な困難な事業を宮沢さんは、自分の人生で実際に実現しようとしていたと考えるからです。

 ドストエフスキーさんは言います。「無条件に美しい人間を描くこと……これ以上に困難なことは、この世にはありません。特に現代においては、あらゆる作家たちが単にわが国ばかりでなく、すべてのヨーロッパの作家たちでさえも、この無条件に(⼂⼂⼂⼂)美しい人間を描こうとして、常に失敗しているからです。なぜならば、これは量り知れぬほど大きな仕事だからです。美しきものは理想ではありますが、その理想はわが国のものも、文明ヨーロッパのものも、まだまだ実現されてはおりません。」

 だとすると、「無条件に美しい人間」像をどのように構想したらよいのでしょうか。ドストエフスキーさんによれば、そのモデルとなる人がこれまでの人間の歴史の中でただ一人だけ存在していたと言います。

 ドストエフスキーさんいわく、「この世にただひとり無条件に美しい人物がおります――それはキリストです」と。

 ドストエフスキーさんはさらにつづけて述べます。「したがって、この無限に美しい人物の出現は、もういうまでもなく、永遠の奇蹟なのです(ヨハネ福音書はすべてそうした意味のものです。ヨハネはその化身のなかに、美しきものの出現のなかに、あらゆる奇蹟を見出しています)。」と。

 その上で、ドストエフスキーさんは、「無条件に美しい人間」としてのキリストさんが示してくれた「美しさ」と同種の「美しさ」をもっている人物を描く文学をキリスト教文学と名づけています。蛇足になりますが、ドストエフスキーさんが言うキリスト教文学とは、決してキリスト教の教えを説く文学ではありません。あくまでそれは、キリストさんと同じような「美しさ」を有している人物を描こうとする文学なのです。

 さらにそうした意味でのキリスト教文学の中で、「白痴」を創作するにあたって注目した作品として、ドストエフスキーさんは、「ドン・キホーテ」、「ディケンズのピクウィック」、そして「ジャン・ヴァルジャン」の三つの作品をあげています。同時にそれらの作品は、「白痴」を創作する「無条件に美しい人間」を描くためのどのような戦略をとったらよいのかを考えるためのものでもあるのです。

 ドストエフスキーさんの目からは、「キリスト教文学にあらわれた美しき人びとのなかで、最も完成されたものはドン・キホーテで」、それよりも「無限に力弱い構想ですが、やはり偉大な」作品が「ディケンズのピクウィック」なのです。そしてこれら二つの作品に共通している「美しさ」の要素が、「滑稽である」という性質なのです。ドストエフスキーさんは言います。

 人がよいというだけでなく、滑稽であるということで、「ただそのために人びとを惹きつけるのです。他人から嘲笑されながら、自分の価値を知らない美しきものに対する憐憫が表現されているので、読者の内部にも同情が生まれるのです。この同情を喚起させる術(すべ)のなかにユーモアの秘密があるのです」。

 さらに、ドストエフスキーさんは、「ジャン・ヴァルジャンも、同じく力強い試みですが、彼が同情を喚起するのは、その怖るべき不幸と彼に対する社会の不正によるのです。私(ドストエフスキーさん)の作品にはそのようなものがまったく欠けています」[( )内は引用者によるものです。]とつづけます。

 では、ドストエフスキーさん自身は、「白痴」を創作するにあたって主人公であるムイシュキン公爵をどのように描くことで「美しさ」を表現しようとしたのでしょうか。一言で言って「弱弱しい人間」、それがキーワードです。ドストエフスキーさんは言います、

 ドストエフスキーさんの創作プランでは、「最も主要な、いってみれば、第一の主人公はえらく弱々しいかぎりなのです。ひょっとすると、私の心の中ではそれほど弱々しくはないのですが、とにかく骨がおれます。いづれにしても、これを書くにはすくなくとも二倍の時間が必要」となるのですと。

 これも繰り返しになりますが、「無条件に美しい人間」を描くということは難事業なのだなと思います。ましてや、宮沢さんはどうにかして「無条件に美しい人間」になろうとしていたのですから、その道を見つけ出すのは「本統」にいかばかりか大変なことだったのだろうと考えてしまいます。

 そうした中で、晩年に宮沢さんが見つけたそのための一筋の光が「デクノボーと呼ばれる」(決して木偶の坊そのものではなかったのではないかと推測します)ような人になるという道だったのではないでしょうか。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン

デクノボーの叡知とドストエフスキーさん

 今福さんの言うデクノボーの叡知に関する宮沢さんの探究の軌跡を追っていくと、ドストエフスキーさんとの関係も気になってくるところです。それは、いわゆる宮沢さんの「雨ニモマケズ」手帳に残されている「土偶坊」を主人公にした演劇構想ノートを眺めているとそのような感じが湧いてくるのです。

 ドストエフスキーさんと宮沢さんの作品との関係性を示唆してくれたのは、清水正さんです。清水さんは宮沢さんの「銀河鉄道の夜」とドストエフスキーさんの「カラマーゾフの兄弟」との関係性を、自著『ドストエフスキー論全集10 宮沢賢治ドストエフスキー』の中で指摘しています。

 ただ清水さんによれば、宮沢さんとドストエフスキーさんとの関係は、トルストイさんとの関係のようには明確に語ることができないそうなのです。すなわち、清水さんによれば、

 「宮沢賢治の年譜を見ると、彼がツルゲーネフトルストイロシア文学に触れたのは大正二年、彼が十七才頃である。余りに簡単な記述なので、賢治がドストエフスキーを読んだのか、それとも『カラマーゾフの兄弟』を読んだのか全く見当もつかない」のです。

 しかし、同じく清水さんによれば、「イヴァン・カラマーゾフとジョバンニは余りにも近似した存在として浮かび上がって」くるのだそうです。

 そのことをヒントにここでの論題に焦点を当ててみると、今福さんの言うデクノボーの叡智に関しては、ドストエフスキーさんの「白痴」という作品との関係性にも興味が惹かれてきます。とくに上記の演劇構想ノートの第八景「恋スル女」から第十景「帰依ノ女」までの構想に関してそのように感じるのです。

 翻訳者である木村浩さんの新潮社版『ドストエフスキー全集10』の解題を参照すると、「長編『白痴』は一八六八年一月から十二月にかけて、雑誌《ロシア報知》の七三号から七八号に連載された」世間からバカ・木偶の坊呼ばわりされているムイシュキン公爵を主人公とする小説です。

 ではこの小説の主人公であるムイシュキン公爵とはどのような人物なのでしょうか。人の言葉を文字通りことば通りに受け取ってしまう、困っている人を助けないではいられず、お金にも頓着せず、請われるまま人に渡してしまうような人で、そのため周りの人たちから白痴(バカ)呼ばわりされている人です。

 しかし、一方では、素直で、謙虚、いばらず誰とでも均しく平等に接しようとしていることで、多くの人たちから信頼され、愛される人物でもあるのです。『ドストエフスキー全集26』にある「白痴」の「創作ノート」には、ムイシュキン公爵の人物像の構想が次のように書かれています。

 「公爵の性格における主要な特質。/いじけた感じ。/おどおどしたところ。/いくじなし。/謙虚さ(⼂⼂⼂)。/自分は〈白痴〉であるという絶対的な確信。」この「創作ノート」にあるように、この小説の主人公であるムイシュキン公爵は決してスーパーマンのような人物ではなく、むしろ人間的弱みをもち、そのことを自分でも自覚している人物なのだということに興味が惹かれます。

 「しかし、心と良心が〈いや、これはそうなのだ〉と彼に囁けば、彼はすべての人の意見に逆らってもそれを実行する。」

 「彼の世界観。彼はすべてのことを赦している。至るところに原因を見ているけれども、赦すべからざる罪は認めず、すべてのこと(⼂⼂⼂⼂⼂)を赦している。」

 「彼自身は自分を誰よりも劣ったつまらない者と考えている。周囲の人びとの考えをすっかり見通している。自分が白痴だとされていることを完全に見抜いて、そう確信している。」等々というようにです。

 この小説の中で、公爵は、アグラーヤさんとナスターシャ・フィリボヴナさんという、所属している社会階層や境遇、そして性格は違っているが、同じように非常な美しさを有している二人の美女から愛されるのです。

 そして、公爵は、社会的境遇に恵まれていない「ナスターシャ・フィリボヴナを救い、その世話をみることで、……キリスト教的な愛の感情によって行動」することで、「二人(⼂⼂)を手引きして、改心させ(⼂⼂⼂⼂)」るというのが、この小説の結末となるのです。

 ではそうした内容をもっているこの小説でドストエフスキーさんは何を描こうとしたのでしょうか。参照した全集の解題には、この小説の意図が示されているマイコフさんへの手紙が紹介されています。そこには、この「〈新しい長編〉の意図を次のように説明して」います。

 ドストエフスキーさんのその意図とは、「完全に美しい人間を描くこと(⼂⼂⼂⼂⼂⼂⼂⼂⼂⼂⼂⼂⼂)です。私の考えでは、特に現代においてこれほどむずかしいことはないように思われます」というものです。

 宮沢さんは文学作品だけではなく、自分自身の生き方においてもドストエフスキーさんの言う「完全に美しい人間」の生き方をめざそうとしていたのではないか、どうしてもそんな思いが湧きあがってくるのです。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン

デクノボーの叡知とトルストイさん

 今福さんが言う宮沢さんが理想自我とするデクノボーの叡知を、宮沢さんはどのようにして自分のものとしていったのでしょうか。そして、「雨ニモマケズ」の書付けとしたのでしょうか。

 まさしくそれにはさまざまな、もしかしたら決して判断することができない諸要因が絡んでいるものと思われます。生まれもった性格、宗教的家庭環境、そして幼いときから人のために働きなさいと育てられてきたことなど、宮沢さんの人生の歩みそのものが、ある意味デクノボーの叡知を自分のものとする旅路だったのではないでしょうか。

 ここでは、それら考えられる影響・要因として、トルストイさんとドストエフスキーさんの影響について見ておくことにしようと思います。今福さんが表現したデクノボーの叡知に相当する人間性について、町田宗鳳さんは、「愚者の知恵」と表現し論じています。

 町田さんは、『愚者(ぐしゃ)の知恵(ちえ) トルストイ『イワンの馬鹿』という生き方』の著者の方です。この著作の中で、町田さんは、現代社会を生きている私たちの生き方を見直すヒントを見出すことができることを願って、「『イワンの馬鹿』をはじめとする小さな民話を綴(つづ)った」トルストイさんの作品シリーズのいくつかを紹介しています。

 そしてその著作の「はじめに」の個所で、それらトルストイさんの作品シリーズの訳者である北御門二郎さんの次のような言説を紹介しているのです。すなわち、北御門さんによれば、

 「トルストイの民話は、……《一宗一派に捉(とら)われぬ純粋理性宗教としてのキリスト教のすぐれた解説書》であり、《神の国を地上にもたらすための平和革命の書》である。そしてそれはそのまま仏陀(ぶつだ)の慈悲に、孔子(こうし)の仁に、老子(ろうし)の道に通じている」のです。

 生まれ故郷である岩手県仏国土を建設することを夢見て生きていた宮沢さんが、「神の国を地上にもたらすための平和の革命書」の著者であるトルストイさんから多くを学んできたのではないかということは、これまでも度々言及してきたところです。

 では、「『イワンの馬鹿』をはじめとする小さな民話」は、どのような意味で、私たちにとって「平和革命の書」なのでしょうか。町田さんによれば、それは、「『イワンの馬鹿』とそれと連なるトルストイの作品は、どこまでもエゴイスティックな私たち自身の姿を、ありありと映し出してくれる心の鏡だ」からなのです。

 同じく町田さんによれば、人間であれば誰しもがもっている「エゴというのは、それほど恐ろしいものなのです。人生が辛いというのも、じつのところ、人生そのものに原因があるのでなく、エゴが人生を辛くしているのです。しかし、エゴがあらゆる不幸の原因とわかっていても、そのエゴを捨てることができないのが、わたしたち人間です。救いがたいまでの凡夫(ぼんふ)の愚かさ」なのです。

 町田さんはさらに追及します。「人間が他者に見せるあらゆる傲慢(ごうまん)は、強烈なエゴを持ちながら、それを自覚できないままでいる自分に対する無知に原因して」おり、そういう「自分に対して無知な人間こそが、善人のふりをしながら、他者に対して、もっとも冷酷なことをやってのけるのです」と。

 エゴ人間に対して、「愚者の知恵」をもった人が創る人生と世界は、すきとおった美しい人生であり、世界なのです。そして、そうした人生と世界をつくることをめざして修行している存在こそ、キリスト教の天使たちであり、仏教の菩薩たちおよびそれらの人たちが創造する「神の国」であり「仏国土(極楽浄土)」なのです。

 町田さんは言います。そうした天使や菩薩たちがすんでいる「天国や仏界から見れば、人間の住む世というのは、戦慄(せんりつ)を覚えるほど、醜く、苦しい世界ではないでしょうか」と。

 ここまで「イワンの馬鹿」をはじめとするトルストイさんの一連の民話に関する町田さんの言説を参照してきましたが、草山万兎(河合雅雄)さんの『宮沢賢治の心を読む』には宮沢さんの一連の童話作品に関するトルストイさんの上記の作品に対する町田さんの理解と同種の理解が示されています。

 『宮沢賢治の心を読む』は4冊の文庫本シリーズで、著者は、草山(河合)さんです。このシリーズ本には宮沢さんの童話作品のうち17の作品が取り上げられており、同時にそれぞれの作品をどのように読んだらよいのかについての草山(河合)さんの解説が付されています。

 それらの解説の中のひとつで「双子の星」の解説に次のような一文があります。それは、「賢治さんは深く心にくい入った『我が毒』に悩みました。しかし、それを無理に取り除こうとするのではなく、生涯追い求めた『まことのことば まことのこころ』を育てる培地でもあると考えていたのだと思います」。

 そのため「賢治さんは『我が毒』に悩みつつ精進(しょうじん)する自分を修羅(しゅら)になぞらえてい」たのですというものです。この解説から、草山(河合)さんは宮沢さんの一連の童話「作品は、どこまでもエゴイスティックな私たち自身の姿を、ありありと映し出してくれる心の鏡」であるとみていたのではないかと推測されます。

 『宮沢賢治の心を読む』は、草山(河合)さんの次のような思いが込められている著作です。すなわち、草山(河合)さんは、この著作で、

 「賢治は高等農林学校の理系の人にもかかわらず、評者のほとんどが文系の人で、生物学的視点が往々にして抜けていると思います。そこで子どもむけに書くこと、と生態学の視点からとらえることの二点に足を下ろして蛮勇をふるってみ」たそうです。

 そうした性格をもった宮沢さんの童話解説は非常に興味あるものと感じます。同時に、宮沢さんが自分の文学作品の中で何を求めようとしているのかということに関しては、文科系的視点からでも、理科系的視点からでも、同じ結論に収斂していくことになることも確認することができたと感じることができました。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン

美しいものを求める旅路

 ここまで宮沢さんが辿った人生の歩みを考察してきたことを踏まえ、一体全体宮沢さんは自分の人生の中で何を追い求めてきたと言えるでしょうか。このブログでは、宮沢さんは自分の郷土である岩手県仏国土(極楽浄土)の世界を実現するために生きてきたという仮説に立ってきました。

 ここではその仮説を前提として、さらに、岩手県仏国土(極楽浄土)の国を実現するために、宮沢さんは何を求めつづけてきたのだろうかという問いを立ててみようと思います。それは、宮沢さんがそういうものになりたいと願った、人から「デクノボー」と呼ばれるような人物とはどのような人物で、そうした人物になることは宮沢さんにとってどのような意味をもつものだったのだろうかという問に答えることにもなるかもしれないと考えるからです。

 この問いの回答に関係すると思われる宮沢さん自身の言説が、1932年6月1日付森佐一さん宛の手紙の下書きの中にあります。この手紙の下書きは、自分が地方財閥という「社会的被告につながりにはいってゐる」ことを宮沢さんが嘆いているものとしてこれまで注目されてきました。

 その嘆きの直後、森さんに「どうかもう私の名前などは土をかけて、きれいに風を吹かせて、せいせいした場処で、お互ひ考へたり書いたりしやうではありませんか」と呼びかけます。そして、自分はどのような気持ちで詩や童話の作品を創作してきたのかについて次のように述懐するのです。

 「こんな世の中に心象スケッチなんといふものを、大衆めあてで決して書いてゐる次第でありません。全くさびしくてたまらず、美しいものがほしくてたまらず、ただ幾人かの完全な同感者から『あれはさうですね』といふやうなことを、ぽつんと云はれる位がまずのぞみといふところです」と。

 この述懐から、宮沢さんは「美しいもの」を、そして自分が美しいと感じたことに完全に同感してくれる仲間を追い求めつづけて生きてきたのだということが分かります。心友である保坂さんはその仲間候補でしたし、妹のトシさんはもし生きていれば宮沢さんの言う仲間だった人ではなかったと思います。

 しかし、残念なことに、この述懐をしている時点では、そうした仲間候補や仲間が唯の一人もいなかったようです。宮沢さんのその生涯を賭けた願いを考えると、何とさびしい人生だったのだろうかと、あらためて強く感じます。

 また宮沢さんの人生は「美しいもの」を追い求める旅路であったこともこの述懐から分かります。その旅路の中で、自分の生き方もまた「美しいもの」でありたいと願ってきたのではないでしょうか。では「美しい」生き方とはどのようなものなのでしょうか。また「美しい」生き方をしている人物とはどのような人なのでしょうか。さらに「美しい」生き方をすることの意味とは何んなのでしょうか。

 『宮沢賢治 デクノボーの叡智』の著者である今福龍太さんは、宮沢さんの作品である「虔十公園林」の主人公である虔十さんこそが宮沢さんが理想としていた人物なのではないかと論じています。

 今福さんは、虔十さんは宮沢さんの「理想自我」だったのではないかと論じています。今福さんは言います。「『虔十』は賢治童話におけるデクノボー類型としてもっとも凝縮され純化された形象だといえます。しかもそれは、もっとも賢治自身の存在に近い、ほとんど自己と連続した、あるいは自己の理念形態と連続した形象として、『そうありたい』という深い希求の念とともに語られています」と。

 さらに今福さんは、虔十さんの人物像は、そうした人物になりたいという願いを込めて宮沢さんが名付けたもので、その名称に象徴的に表現されていると言います。すなわち、宮沢さんの「分身のような存在に、賢治は『虔十』という特別の名を与えたのです。『虔』は慎み深いこと、そして『十』は仏教でいう菩薩が人びとを救うために使う智力である『十力(じゅうりき)』のことをきっと暗示しているのでしょう」と。

 そうした人物像である「デクノボー」なることのさらなる意味とは何なのでしょうか。今福さんによれば、それは、「〈デクノボー〉だけが指向することのできる、叡知の世界」に至ることができるようになるということなのです。

 さらに今福さんによれば、その叡知とは、「『人間の知恵』の外部にあって、〈デクノボー〉だけがその存在をかすかに関知できるにすぎない、理性や意識の外側に広がる無時間領域の、誰のものでもない希望」なのです。

 さらにさらに今福さんのことばで敷衍すれば、「そしてなによりもそれは、他人に希望や夢を求めたり押しつけたりしない、賢治のつつましい倫理学のありように倣ったものでありました。そもそも叡知とは、『他なるもの』を判別して意味づけ、支配する知ではなく、他なるものを受けとめ、ともに悦びともに苦しむ共感の知のことにほかならない」のです。

 今福さんの言うデクノボーだけが指向することのできる叡知とは、人間理性とは、他者の価値を認識し、その価値の観点から他者と関わることができるようになるための共感的感情力能のことであるとする感情社会学の人間理性理解と共通するものであると感じます。

 そして、感情社会学の理性論は、宗教的な視点からすると、キリスト教の愛に関する理論に関係していますが、宮沢さんはどのようにしてそうした今福さんの言うデクノボーの叡知を自分のものとしていこうとしたのでしょうか。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン

虔十少年家族のお話

 社会学の目でみると、本間さんの論考における虔十少年と彼の家族との関係に関する考察には興味深いものがあります。本間さんは、ご自分の仕事柄から、虔十少年について次のような見方を提示されています。すなわち、それは、

 「みんなにバカバカと言われた虔十は今では後天的な『ダウン症候群』や『エドワード症候群』と言われた染色体異常の知的障がいの臨床症状のある少年であったのでしょう」という見方です。

 そして、本間さんはもしそうした場合、「当時、(今もですが)ダウン症(知恵おくれ)等の子供がいる家庭は家の奥座敷に隠してしまう」ものであることを指摘し、しかし、虔十少年家族の場合には、それらの社会的処遇とは全く違った関係性であったことを評価しています。

 すなわち、「虔十は家族と一緒に農作業」する生活をおくっていただけでなく、虔十少年の杉700本の植林の希望を家族のみんなで応援し、その希望の実現を支えていこうとするのです。

 そうした生活の風景を本間さんは以下のように表現して行きます。まず虔十少年が杉の苗をお願いする場面です。「お母さんに『お母(か)、おらさ杉苗700本、買ってけろ』のお願いをすると、父が『買ってやれ、虔十ぁ今まで何一つだって頼んごどぁ無いがったもの、買ってやれ。』と言いました」。

 植林した杉苗を兄の協力の下で育てていく場面は、「そこは杉が育ちにくい『粘土質の土地』でしたが、お兄さんの知恵と協力で、700本の杉苗を几帳面な虔十は実に正確な間隔で植えました」のですと。

 そして、植林した杉苗の土地が地域の人たちの憩いの場となるような公園林に育っていく半ばで虔十少年が急逝してしまったのちの場面に関しては、「その後家族が20年以上杉林を大切に手入れし続けて、杉は駅から3丁(330m位)の街中の小学校の運動場の隣にあってお天気の日には毎日子供たちの遊び場になっていました」と。

 ここまで参照してきた本間さんが描写している虔十少年とその家族の生活風景は、幸福家族の生活風景の典型と言っても過言ではありません。虔十少年は自分の夢をすべての家族のメンバーから受け入れられ、応援されています。そのため夢実現に立ちはだかってくるさまざまな困難を家族の支えと協力によって乗り越え、一歩一歩自分の夢実現の歩みを進めていけるという幸福を虔十少年はえています。

 家族のものたちは、自分の大切なメンバーが毎日生き生きと笑顔で社会的活動をしている姿を見るだけでなく、自分たちの応援がそうした活動を支えているということを実感することができる幸福をえています。

 しかも、家族の人たちは、志半ばで虔十少年が亡くなってしまったあと、その志を継承し、今度は自分たちが地域の人たちから喜ばれ、多くの人を幸せにする社会貢献活動の当事者になるという幸福をえています。

 宮沢さんは、こうした家族の姿を描きながら、この作品の中では、虔十少年とその家族の姿を「ほんとうの幸せ」とは明示的には表現はしていません。しかし、宮沢さんは家族とはそのようなものであったほしいという願いをもっていたのではないかと思います。

 しかも、宮沢さん自身の家族も、文字通り虔十少年家族と同じ性格をもっている家族であったことを実感し、感謝もしていたのではないでしょうか。そうした宮沢さんと家族の関係、とくに父との関係は、ときには甘やかしという批評が下されもするようです。

 岩波書店刊行の『日本近代文学大系36』は『高村光太郎宮澤賢治』ですが、その宮沢さんに関する解説で、伊藤信吉さんは、羅須地人協会設立時の父のとった行動を次のように評しています。

 「私的なことばを挿しはさむことになるけれども、私は賢治の両親が桜の台地へ移住することを認め、いかに粗末でも一棟の建物の建築費を支出し、収入のない生活を了解していたことを、世の常の親として寛大だったように思う」のですと。

 このように岩手県仏国土(極楽浄土)の国を建設するという自分の夢を、支えられ、応援されていることの実感と感謝が宮沢さんにもあったと考えたいと思います。しかし、そうしたことで自分は「ほんとうに幸せ」であると明示的に口に出して表現することはありませんでした。なぜなら自分ごとではなく、すべての人の「ほんとうの幸せ」を実現するというのが宮沢さんの希求していたものだったからです。

 自分が享受している幸せを、それが幸福なことであるといちいち明示的に示すことの必要のない幸せこそ、「ほんとうの幸せ」というものではないかと思います。宮沢さんの「虔十公園林」という作品もそうした「ほんとうの幸せ」づくりの物語であると言えるのではないでしょうか。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン