シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

宮沢賢治さんがめざしたこの世の極楽浄土像とは(4)

 宮沢さんの農民芸術論に関して、社会学的に見てさらに興味惹かれる議論は、「農民芸術の産者」および「農民芸術の批評」論です。なぜならば、それらの議論を社会づくりという視点で見るとき、宮沢さんが何をめざしていたかを明らかにしてくれているからです。まず前者の論点を参照してみましょう。それは、「われわれのなかで芸術家(極楽浄土をめざす人)とはどういふことを意味するか」〔( )内は引用者によるものです。〕についての議論です。宮沢さんは、首唱します、

 「職業芸術家(宗教家)は一度亡びねばならぬ/誰人もみな芸術家たる感受をなせ/個性の優れる方面に於て各々止むなき表現をなせ/然もめいめいそのときどきの芸術家である/創作自ら湧き起り止むなきときは行為は自づと集中される/そのとき恐らく人々はその生活を保証するだらう/創作止めばふたたび土に起つ/ここには多くの解放された天才がある/個性の異る幾億の天才も併び立つべく斯て地面(この世)も天(極楽浄土)となる」〔( )内は引用者によります。〕とです。

 ここで表現されている土とはこの世を示唆しているのでしょう。そして、天は極楽浄土を示唆しているものと考えられます。人々すべては個性的存在です。それを芸術家となって十分に表現するとき、すべての人は天才、すなわち仏となるのです。しかも、それらの人々が争うことなく併びたつとき、その世界(社会)は極楽浄土となることができるのです。

 ではそうした意味をもつ、「農民芸術の批評」を宮沢さんはどのように論じていたのでしょうか。宮沢さんは首唱します。

 「正しい評価や鑑賞はまづいかにしてなされるか」。それは、「批評は当然社会意識以上に於てなさねばならぬ/誤まれる批評は自らの内芸術(自分が属している宗教または宗派)で他の外芸術(他の宗教または宗派)を律するに因る/産者(仏となり極楽浄土をめざす者)は不断に内的批評を有たねばならぬ/批評の立場に破壊的創造的及観照的の三がある/破壊的批評は産者を奮い起たしめる/創造的批評は産者を暗示し指導する/創造的批評家(宗教家)には産者に均しい資格が要る/観照的批評は完成された芸術に対して行はれる/批評に対する産者は同じく社会意識以上を以て応へねばならぬ/斯ても生ずる争論ならばそは新なる建設に至る」〔( )内は引用者によります。〕のですと。

 この宮沢さんによる農民芸術批評論をどのように解読していけばよいのでしょうか。終活の一環として最初宮沢さんに関心をもったときにこの文章を読んだときには、一般的な芸術批評論なのではないかという意識で読んでいました。しかし、宮沢さんの人生や生き方に関心をもったことで、それまでほとんど関心もなく、そのために手にとることもなかった宗教関係の文献の読み進めることで、結論から言えば、この農民芸術批評論は、既成の宗教および宗教家批判論として読まなければならないのではないか、という思いが強くなってきたのです。

 とくに、末法期に入った後の宗教とはどうあらなければならないのか、宮沢さんはそうした問題意識を強くもっていたのではないかと推測できるのです。そう言えば、宮沢さんが影響を受けたと考えられる、トルストイさんは、既成のキリスト教の先鋭的な批判者でした。また、宮沢さん自身、自分の命を捧げる覚悟で入会した国柱会での活動の中で、教えはあるが実践がないという思いでその活動から退いたという経験をしていたのではないでしょうか。

 「法句教」に関するある文献を読んだとき、ブッダさんの教えは如何にやさしく、むずかしいことばもなく、しかもあたりまえのことが言われているので、すぐに理解できるものですという言説に出会いました。また、しかし、難しいのは、いかにその教えを実践するかにあるのですという言説に出会いました。そして、次の文章がつづいていたのです。それは、

 「自分の誓いと、他者への願いとを、他からの命令でなく自分から進んで喜んで実践していくのが仏教思想の特徴です」という文章です。さらに、その文献では、その実践は、仏教でいう愚かな考えではなく、正しく、賢くあらねばならないのですと諭していました。

 そして、ここからは極めて主観的な感想となるのですが、しかし、末法思想によれば、すなわち宮沢さんによれば、既成の仏教を含む宗教にこそ、その実践がなくなってしまっていたのではないでしょうか。仏教を含む既成の宗教に残っていたのは、正しい教えとは何か、どの宗教・宗派が正統的な教えなのかをめぐる、(人間にとって最も)「愚かで醜い」(「どうする家康」というNHK大河ドラマの最終回における家康さんのことば)争いという形にまでいきつきかねない(そして、現在そうした事態が世界中で起こっているものと思われるのですが)争いごとではないかと、宮沢さんは感じていたように感じます。

 宮沢さんの童話作品とは、そうした既成宗教における正義・真理・正統性をめぐる争いが、それらの生存・富・名誉(声)をめぐる競争・争いとなってしまっている姿をも描き出すことにもなっていたのではないかと感じます。蛇足となりますが、ロシアによるウクライナ侵攻へのロシア正教の加担やパレスチナにおけるイスラエルの蛮行を宗教家はどのように捉えているのでしょうか、ぜひ聞いてみたいと思います。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン

宮沢賢治さんがめざしたこの世の極楽浄土像とは(3)

 宮沢さんの筆による浮世絵の通信販売のための広告文で、社会学的に興味を惹かれるのは、日本の古きよき時代の風俗・風習を再興したいとの気持ちが表現されていることです。その文章は次のようなものです。少々長い引用となるのですが、宮沢さんが極楽浄土建設で何をめざしていたかを理解するために、煩を厭わずその作業を行いたいと思います。

 「古い日本の家庭では、旧三月の雛祭五月の節句、秋祭乃至は冬の夜すさびに、みなこの類(古き日本の絵本としての浮世絵)を備へてゐたのでありましたが、明治になつて西の忙しい文明が嵐のやうに日本を襲ひ、日本がこれをしばらく忘れてゐるたうちに、その大半は塵に移し、一部は海のかなたに散つて、今やほとんど内地にこれらやさしい国を国のその影だにもなくなりました。たまたま本社は東北各地で数千枚を蒐集し、その散佚を防いで置きました」〔( )内は引用者によるものです。〕というのがその文章です。

 この文章に触れて、真っ先に感じたのは、宮沢さんは、日本が「やさしい国」になることを、きっと潜在的な形なのだと思いますが、望んでいたのではないかという思いでした。そして、その基礎となるのが、日本の古きよき時代の生活習慣・風俗・文化だと、宮沢さんは捉えていたのでしょう。それは、日常の労働や生活が、宗教・芸術と一体となって営まれていた生活の形にあると、宮沢さんは考えていたように思えます。それらの生活習慣や風俗には、四季折々の、そのときそのときに、お祭りや各種の年中行事として、平穏に生きていることに感謝し、喜び、楽しむ感情があふれているものと、宮沢さんは感じていたのでしょう。

 それが、明治以降の「西の忙しい文明」が怒涛のごとく日本を襲うようになると、それらの生活習慣や風俗が急速に失われていくようになったと、宮沢さんは捉えていたのでしょう。そう言えば、宮沢さんは、自分の欲望を実現するために、他者を蹴落とし、他者の足をひっぱる風潮の中で、無数の青白い顔をした死体が流されてゆくという悪夢を見ていたということを思いだしました。それは、まさしく、「やさしい国の国の影だにもなく」なってしまった日本社会の姿だと、宮沢さんは感じていたことを示しているのかもしれません。

 また、「西の忙しい文明」は、小は日常生活における日々の競争から、そして大は国と国との戦争という姿で、争いごとが絶えない世界を生みだしているとも、宮沢さんは捉えていたのではないかと推測します。なによりも、日本の優しい国の姿を表現している浮世絵は、戦国の世から争いごとがなくなった平和な世の中で生まれていった芸術だったのですから。

 そうしたもろもろの思いが結晶化したものが、宮沢さんの農民芸術論だったのではないでしょうか。そしてそれは、また、宮沢さんが期していた極楽浄土(仏国土)建設のための指針でもあったのではないでしょうか。そうした思いを土台として、宮沢さんの有名な農民芸術論は生まれたのではないかと推測します。「農民芸術概論要綱」の冒頭で宮沢さんは次のように宣言していました。

 「われわれはみな農民である ずいぶん忙がしく仕事もつらい/もっと明るく生き生きと生活する道を見付けたい/われわれの古い師父たちの中にはさういふ人も応々あった」とです。

 はじめてこの文章を読んだとき、「古い師父たち」の「古い」とは、宇宙時間的時間観念のもちぬしである宮沢さんのことなので、相当「古い」時代の人々の生活のことではないかと感じたのです。しかし、浮世絵の通信販売の広告文の示唆するところによれば、それは近世時代という、比較的新しい時代に属する生活風景のことではなかったかと、いま考え直しています。

 しかも、この「農民芸術概論要綱」には、農民芸術の創造=極楽浄土創造であることを示唆する文章もあります。それは、「農民芸術の製作……いかに着手しいかに進んで行ったらいいか……」についての文章です。宮沢さんは、宣言します、

 「世界に対する大なる希望をまづ起せ/強く正しく生活せよ 苦難を避けず直進せよ/感受の後に模倣理想化冷く鋭き解析と熱あり力ある綜合と/諸作無意識中に潜入するほど美的の深と創造力は〔加〕はる/機により興会し胚胎すれば製作心象中にあり/練意了って表現し 定案成れば完成せらる/無意識〔部〕から溢れるものでなければ多く無力か詐偽である/髪を長くしコーヒーを呑み空虚に待てる顔つきを見よ/なべての悩みをたきぎと燃やし なべての心を心とせよ/風とゆききし 雪からエネルギーをとれ」とです。

 宮沢さんにとって、極楽浄土とは、何か別世界または異界として存在しているものではなく、「憂き世」であるこの世において希望をもち、それを実現するために「強く正しく生活」することで、生活の中にある美を探求し、それを芸術として昇華することで一人ひとりの人が自分の努力によって自分の心の中に創造していく世界のことだったののだと感じます。それは、長い髪をし、コーヒーを呑みながらただひたすら幸福が来ることを待つことによっては得ることのできない世界なのです。しかも、その極楽浄土建設の原動力は、この世に存在している悩みや苦しみなのです。それらを薪とし、燃料とすることによって極楽浄土建設を進められるのです。さらに言えば、苦しみ悩むことこそ、極楽浄土への道なのです。宮沢さんは『春と修羅』の中で、「おれはひとりの修羅なのだ」。だからこそ、自分も極楽浄土建設をする存在となりうる者なのだと宣言していたのです。

 そのようにこの世のすべてが極楽浄土なのではありません。そうした生き方をすることができないでいる多くの人にとって、この世は苦しみにまみれなければならない地獄、または「憂き世」なのです。宮沢さんは宣言します。そのよう中で苦しみながらも極楽浄土を創造しようと努力している人こそが、「芸術家」なのですと。そして、この宮沢さんの主張は、どうしたらこの世の苦しみから逃れ、自由となったらよいかを説く、またはそれを実現してくれる絶対的な力をもった他者の現れることに希望をもつことを説く主張とは、それらいずれの教えとも一線を画する主張だと言えるように思います。宮沢さんの教えは、自分の人生の芸術家になるにはどうすればよいかというものではなかったかと思います。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン

宮沢賢治さんがめざしたこの世の極楽浄土像とは(2)

 宮沢さんは、浮世絵の中にこの世における極楽浄土の風景を見ようとしていたのではないでしょうか。そうした仮説の下で、宮沢さんが書いたという浮世絵の通信販売のための広告文を読んでいきたいと思います。

 その広告文のタイトルは、「なつかしい伝統日本江戸錦絵のおもかげ」です。そして書き出しは次のようになっています。「轟音と速度(スピード)の現代のなかで、日本古代の手刷木版錦絵ばかりしづかな夢ときらびやかな幻想をもたらすものが、どこに二つとありませう」とです。

 浮世絵は、自然や人々の生活風景、身の回りの植物や小動物、またさまざまな人物を題材にしています。しかもそれらは情趣ある生きた存在として、しかも色鮮やかな極彩色の世界として描かれています。それらはまるで、宮沢さんの童話世界のように感じます。

 またまた横道に逸れるのですが、最近仙台水族館を訪れる機会がありました。そこで、大水槽を舞台にしたショーを見たのです。それは、群れをなしたいわしが、音楽に合わせて、数か所から噴き出す餌をめがけて高速で移動するというショーでした。アナウンスで、そうした光景を、正確ではないかもしれませんが、命きらめく世界と紹介していたと記憶しています。

 宮沢さんが書いたという浮世絵の広告文の冒頭のところを読んだとき、頭に浮かんだのが、仙台水族館の大水槽のショーの中でアナウンスされた、「命きらめく世界」ということばでした。宮沢さんは、この世のすべての存在を命ある、きらめきかがやいている存在であるととらえていたのではないかと感じたのです。錦絵としての浮世絵は、まさしく私たちの身の回りに存在するすべてのものを、命ある世界ととらえ、その世界を芸術的に表現した作品だったのではないでしょうか。宮沢さんは浮世絵をそのように理解したのではないかと推測します。

 私たちの身の回りに存在するすべてのものに、すでに極楽浄土建設のための潜在力は存在するのです。宮沢さんにとって、問題は、それを意識的に顕在化させることができるのか、ということではなかったかと考えます。自然および生活世界の中にある(聖性にもつながる)美しさときらびやかさ、それらが、宮沢さんが考えていた極楽浄土の世界だったのではないでしょうか。

 そして、宮沢さんは、浮世絵の芸術性を次のように讃えます。浮世絵こそ「嘗て日本が生んだ、たった一つの独創美術、やがてはゴッホセザンヌ新流派さへ生みだした、世界の驚異でありました」とです。

 とくに、宮沢さんは、初代歌川広重さんを高く評価していたようなのです。中沢さんによれば、宮沢さんが綴った広告文の別紙には、浮世絵の鑑別法も記されており、代表的な浮世絵師をかかげ、その頭に、三重丸、二重丸、そして丸を付して、広告文の読み手に注意喚起していました。中沢さんは言っています、

 広告文ではなく、光原社の当主の方に宛てた別紙に「附記して賢治は、主たる浮世絵師の名前を記して其系統や位置を一目瞭然たらしめている。而して、賢治は、初代広重の頭に三重丸をつけ、初代豊国、國貞には二重丸を、二代豊国、国周、重宣、芳幾、には丸をつけて注意を促している」のですと。

 恥ずかしいことになりますが、それまで全く浮世絵に興味・関心をもったことがない身としては、それらの区別の意味がわかりません。なぜ宮沢さんは、初代広重さんに三重丸をつけたのでしょうか。広告文の中の浮世絵の紹介文は次のようになっています。それらは、浮世絵は世界的芸術であることを示唆した文につづく文章です。

 「そこには初代広重の東海道の宿(しゆく)松、白く澱んだ川霧と、黄の合羽うつ俄雨、または葛飾北斎の氷雪にそヽるまつ赤な富士や、さては歌麿英山の歌ふばかりのうなじの線やあらゆる古き情事の夢を永久(とわ)にひそめる丹唇や、もとより春信情哀の童話の国のかたらひと、端正希臘の風ある眺めや、或は藤川一派から三代豊国あたりに続々あらゆる姿態の役者絵と江戸の力士の大絵、乃至は国芳英泉の武者や国事の姿まで、まこと浮世絵版画こそさながら古き日本の絵本でこそありました」とです。

 これは全くのあてずっぽうですが、宮沢さんは、心象風景ということで、ひとつのテーマとしては、浮世絵詩的「文学」(ここではとりあえず文学としておきたいと思います。同時に、宮沢さんは、詩作品と言われている作品に宗教的な意味を込めようとしていたように感じるのです。そのことに関しては、また論じることができればと思います。)を創作しようとしていたように感じます。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン

宮沢賢治さんがめざしたこの世の極楽浄土像とは(1)

 前回述べたように、宮沢さんは、厳しい自然との闘いを教訓に、自分が理想とした極楽浄土建設としての地域づくりの現状とその中での自分の役割について、「もう一度反省し、見直すところから出発」しようとしたと考えられます。そして、その結果、実際に実行した活動が東北砕石工場のセールスマンとしての活動だったのです。なぜ自分の故郷である岩手県に極楽浄土を建設するための活動がセールスマンだったのでしょうか。ここに宮沢さんが極楽浄土建設のためにめざした地域社会づくりとはどのようなものであったかを考えていくためのヒントがあるように感じます。

 宮沢さんの極楽浄土建設とは、「すべての苦しむ衆生を救う」ためのこの世においてその衆生が暮らしている「生活空間」づくりとしての地域づくりだったのではないかと考えます。では、宮沢さんは、どのような「生活空間」が実現すればそれは極楽浄土となると考えていたのでしょうか。それをキーワードで示すとするならば、平和と平穏、明るく、楽しく、美しくではなかったかと思います。

 それらのキーワードを想起したキッカケは、石巻市博物館で開催されていた「学んで、旅して、たのしむ浮世絵」展を観覧したことです。この展覧会は、山形県天童市にある、歌川広重さんの浮世絵を収蔵し、公開している「広重美術館」が、その施設改修のため東北各地で移動開催している特別展の一つです。石巻博物館では、2023年9月2日から同年の10月29日まで開催していました。

 その浮世絵展を観覧しているとき、ふと以下のような浮世絵についての解説が目にとまったのです。それは、「浮世絵とは、江戸時代に誕生し発展した絵画で、当時の人々の暮らしや街並み、流行、文化などを描いたものである。中世には仏教の『浄土』に対して現世を『憂き世』といい、つらいことが多い苦しみに満ちた世の中を意味していた。それが江戸時代の平和な社会になると、『浮世』の造成語が生まれ、どうせ憂き世に生きるのなら楽しく浮かれて暮らそうと享楽的な意味に変わる」のですというものでした。

 この解説文を読んだとき、宮沢さんは、浮世絵の中に自分が考えている極楽浄土の風景を見ていたのではないかと感じたのです。すなわち、この解説文のなかの、「浮かれて」と「享楽的」という浮世絵に関する性格づけを除けば、宮沢さんが浮世絵からどのような仏国土建設のヒントを得ていたか、ある程度推測していくことができるように感じます。少なくとも、宮沢さんは、極楽浄土的なものとして、金銀財宝などのお宝のようなものではないものを考えていたように思います。

 この石巻博物館の浮世絵展をキッカケに宮沢さんの仏国土建設の夢と浮世絵の関係に興味をもちました。そこで、宮沢さんと浮世絵の関係について論じたものが何かないかを調べたところ、戦前のものですが、農民芸術社の『農民芸術』という雑誌に、それがあったのです。それは、中沢天眼(現代漢字に変えて記述しています。以下同じように記述していきます。)さんの「宮沢賢治と浮世絵」という論考があることが分かりました。

 早速この論考のコピーを入手し、読んでみたのです。その書き出しは、終戦の1945年に盛岡の光原社の及川四郎さんを訪問したときのエピソードです。周知のように光原社は、宮沢さんの『春と修羅』を出版した会社です。また、光原社は、明治期無価値化していた浮世絵の芸術的価値を認め、投げ捨てられ、海外に散逸してしまっている状況を憂いて、数千枚に及ぶ浮世絵を収集していた会社だったことが記されていました。また、それを自分の会社のお客さんに通信販売していたというのです。しかも、その通信販売の広告文を書いたのが、誰あろう宮沢さんだというのです。

 この中沢さんの論考を読んで、はじめて宮沢さんと光原社との間には、そうしたつながりがあったことを知りました。また、宮沢さんが書いたという浮世絵の通信販売のための広告文にも興味を持ちました。もしかしたら、宮沢さんの極楽浄土像がその浮世絵の広告文に反映されているのではないかと考えたからです。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン

仏教と倫理に関するジレンマと宮沢賢治さん(3)

 宮沢さんは、あまりにも高い大乗仏教の理想とそれを自分自身で実践する道を進むためにその理想を実現するにふさわしい人間にならなければならないとの思い込みから、その理想的自我と、煩悩をもち、その理想を実現するにはあまりにも非力な現実の自我(自己)との間の、これもあまりにも大きなギャップに苦しまなければならなかったと言えます。しかし、理想的自我と現実の自我のギャップに悩むということ自体は、人間誰しにも存在する苦悩なのではないかと思います。だからこそ、宮沢さんのあまりにも「聖」なる志をもったことによって生まれた苦悩に、多くの人が共感的に感情移入することができるのではないかと感じます。

 宮沢さんはどうすればよかったのでしょうか。また、宮沢さんはそのギャップをどのように乗り越えようとしたのでしょうか。そのことを考えていくために、再度、末木さんの「大乗仏教と(道徳)倫理」におけるジレンマ問題についての論考を参照したいと思います。屋上屋を重ねるような作業ではないかとのそしりもあるかもしれませんが、それは、私自身の終活の作業でもあるということでお許しいただければと思います。

 末木さんのことばによれば、宮沢さんが抱え込んでしまった苦悩とは、「菩薩と<空>という大乗仏教の原理」を自分の生き方にしようとしたことによる苦悩であったと言えるでしょう。そしてそのことで宮沢さんは、「(道徳)倫理」に関して解決し難いジレンマ問題を抱え込むことになったのです。その第一は、救うべき存在から救われることを願う存在となってしまうというジレンマです。末木さんは言います、

 第一に、「大乗仏教は確かに衆生救済という高い理想を掲げる。六波羅蜜を説き、ときには布施のために生命をも捨てることを説く。また、衆生救済のために、衆生と同じ病気の姿をも示す。それはすばらしい。しかし、そもそもわれわれ凡人にはそのような高度の救済活動ができるのか。ここに、他者としての救うブッダや菩薩が現れ、われわれは救われるべき衆生となる」のですと。この末木さんの指摘との関連で言及しておくこととなるのですが、宮沢さん誓願は、自分自身が救われる衆生ではなく、自分はあくまで苦しむすべての衆生を救う存在となりたい、ならなければならないというものでした。そのことが意味することとは、宮沢さんであっても神でも仏でもない紛れもない一人の人間であるということを考えれば、それだけ宮沢さんの苦悩は大きかったと言えるのではないでしょうか。

 第二に、「大乗の原理はこの世界を全体として問題にする。『すべての衆生を救う』とか、この全世界が<空>であり<実相>であると説く。そのように世界全体を問題にすると、あまりにも話が大きくなりすぎて、具体的な倫理にはいたらず、倫理は崩壊する。そこでは、どんな悪をもすべて仏の世界の中に吸収され、認められてしまう。その倫理崩壊が超・倫理へと導くこと」になるのですと。宮沢さんも、こうした道徳としての倫理問題のジレンマに陥りかねない危うさを潜在させていたように思えます。そのために、宮沢さんが侵略戦争の積極的な加担者となってしまったかしれない人生上の危機があったのではないでしょうか。

 以上の二点の末木さんの指摘は、大乗仏教だけのことに限られるものではなく、宗教と道徳倫理との間のジレンマに共通するジレンマのように感じます。かつて日本で起きたオウム問題や、現在のパレスチナ問題における究極の反倫理的な戦争という残虐行為にその実例が示されているのではないかと思います。宮沢さんも、どう見ても自分の力だけではどうしようもなく解決不能な理想と現実との間のジレンマとそこから生じる苦悩に喘いでいたのではないでしょうか。そして、だからこそどうしようもない孤独感にさいなまれていたように感じます。

 いったい宮沢さんはどうすればよかったのでしょうか。末木さんは、そのための方向性を次のように指し示します。すなわち、人間という存在は、「あまりに一気に問題を大きくしてしまうと、身近な問題が見えなくなる恐れがある。たとえば、遠くの世界の戦争よりも、自分の子供のほうがよほど気にかかるのが現実だ。もちろんそれは執着であり、それを超えるのが仏教だといえばそれまでだが、それを超えられないところから考えなおさなければ、現実的ではないだろう」とです。

 さらに以下のようにその議論をつづけます。「それゆえ、<人間>の倫理の世界から、超・倫理というどこか飛び離れた世界に移行するとみるのは不適切である。超・倫理といっても、日常とかけ離れたところにあるわけではない。執着したくなくても、執着してしまう日常に目を留めてみよう。そこには倫理的であろうとしても、そうできない自分自身に気づくだろう。日常そのものが<人間>の領域として完結したものではなく、<人間>を超えた超・倫理をはらんでいる。<空>や不二といっても、われわれの日常をもう一度反省し、見直すところから出発するのでなければならない」とです。

 宮沢さんもまた、この末木さんが説いたように、厳しい自然との闘いを教訓に、自分が理想とした極楽浄土建設としての地域づくりの現状とその中での自分の役割について、「もう一度反省し、見直すところから出発」しようとしたのではないかと考えます。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン

仏教と倫理に関するジレンマと宮沢賢治さん(2)

 末木文美士さんによれば、人と人との関係を、「善悪の判断」を基礎に律する道徳的「法」としての倫理には、自他関係における矛盾・葛藤・対立・闘争を避けることができないのです。末木さんは、そうした視点でさらに、宗教と倫理、具体的には仏教と倫理との関係を哲学的に探究しています。そして、その探究の成果を著した著書である『仏教VS.倫理』の中で上述の点に関して次のように言及しているのです。すなわち、

 「なんだか詭弁(きべん)のような議論と思われるかもしれないが、他者の存在はそれだけ問題をやっかいにすることである。理想的人格としてのブッタならば、本当に無償の慈悲が成り立つかもしれない。しかし、少しでも煩悩が残っていれば、人間関係は必ずしも無償の純粋さを保つことはできない。ひとりでいる限り心が平静であっても、そこに人間関係が入り込むと、必ず嫉妬や競争、愛憎などの複雑な感情が生まれてくる」とです。

 末木さんによれば、そうした倫理上の問題は、自利と利他の関係性をめぐって生じてくるのです。少し長い引用がつづきますが、宮沢さんの人生における苦悩や迷いを理解するために重要と考えますので、末木さんの議論に耳を傾けたいと思います。末木さんは言います。「原始仏教の理論はそのような他者との関係から生ずる非合理的な要素を排除することによって」、自分が直面している「生老病死」という個人の実存的とも言える「苦」からの脱却という自利を究極的な形で、徹底的に追究しようとしていました。

 しかし、その後の仏教の展開の中で、「苦しむすべての衆生を救う」というこれまた究極の利他を追究する大乗仏教と呼ばれる仏教が誕生してくるのです。そうした「大乗仏教は(原始仏教が徹底的に排除しようとした)この他者との関係を根本原理に組み込もうとするもので、そこに原始仏教と異なる大きな特徴がある」〔( )内は引用者によるものです。〕。

 「人は他者なしには生きられないのだから、それを原理の中に入れるのは当然だ。と単純にいうことはできない。原始仏教の場合のように、それを原理に組み込まない体系も可能なのである。ところが、他者との関係を組み込むと、途端に問題がややこしくなる。他者は私を無関心、無関係なままにしておいてくれない。そこに、理屈ではどうにもならない愛憎や憎悪のような感情が生まれてくる。相互に自立した修行者同士でも問題が起こるのだから、まして一般の人々や異教徒を相手にするのであれば、平穏で済むはずがない」。

 「場合によっては、争いや暴力も生まれてくるであろう。……こうして大乗仏教は、孤立した個の集合としての原始仏教の共同体では考えられなかった、解決困難な厄介な問題を背負い込むことになる。他者を考慮に入れることによって(道徳)倫理が明らかになるのではなく、かえって(道徳)倫理の原理が曖昧になり、なし崩しに崩壊するのである。他者とは、<人間>のルールを逸脱する得体のしれないものである」〔(道徳)は引用者によるものです。〕。

 この末木さんの議論に接したとき、思わず、宮沢さんが、正確ではありませんが、それは観念の世界の出来事だから、戦争において他者を殺すも、他者によって自己が殺されてもかまわないという考えを披歴していたことや、自分に好意を寄せてくれていた女性を悪魔呼ばわりして遠ざけたというエピソードがあったことを想起してしまいました。

 それらのことに関して、末木さんは、さらに言及していきます。

 「大乗仏教は、このように他者を原理の中に入れることによって生ずる複雑な問題に対して、その中に埋没するのではなく、理想を生かすために、歯止めとなる原理を立てる。ひとつは菩薩の倫理として六波羅蜜(ろくはらみつ)を立て、理念を無限大まで追い求めることを課する。波羅蜜(パーラミター)は完成という意味で、布施(ふせ)・持戒(じかい)・忍辱(にんにく)・精進(しょうじん)・智慧(ちえ)の六つの徳目を、中途半端でなく、徹底的に追求しなければならないという。それは中庸(ちゅうよう)を重んじ、極端を避ける原始仏教の発想とは異なっている」。

 「もうひとつは、執着をさけるために『空(くう)』を徹底することを求める。『空』は大乗仏教の理論的な根幹をなすが、実践的にいえば、執着を離れ、とらわれのない自由な境地に立つことを求める」。

 「だが、そのような原理を立てることで、歯止めができるであろうか。かえって問題を複雑化してしまわないだろうか。『波羅蜜』による徹底といっても、それほど容易にできるものではないし、執着のない自由な立場といっても、ご都合主義的な無原則に陥らないだろうか。こうして大乗仏教は、原始仏教にない複雑な問題を抱え込むことになったのである」。

 宮沢さんは、まさしく、ここまで参照してきた末木さんの大乗仏教における倫理上のジレンマを抱え込んでしまっていたのです。宮沢さんが信じた仏教は、まさしく「苦しむすべての衆生を救う」という大乗仏教中の大乗仏教でした。しかも、そのことができる奇蹟的な力をもっているとされている、釈迦・菩薩・如来による救済に頼り、まかせっきりにしない、信仰者自らが救済者となって分け隔てなく、「苦しむすべての衆生を救う」実践をしなければならないという大乗仏教を心から信じていたと考えられるのです。そのことで、宮沢さんは、自分ではどうすることもできない複雑な倫理上のジレンマを抱え込んでしまっていたのではないでしょうか。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン

仏教と倫理に関するジレンマと宮沢賢治さん(1)

 ここまで主として1927年に宮沢さんが直面した試練に関する同年8月20日付の作品を参照してきました。ではその作業から宮沢さんに関する何を見出すことができるのでしょうか。この問いに対しては、以下の3点をあげることができるのではないかと思います。第一は、宮沢さんは大きく言えば、宗教における倫理問題を抱え込んでいたということでしょう。第二に、宮沢さんがその建設をめざしていた極楽浄土とはどのようなものであるのかということです。そして、第三に、同じく宮沢さんがめざしていた仏教の革新とはどのようなものであったのかということです。

 以下、これら3点について考察していくことにしましょう。まず、第一の点からです。社会学的に見ると、すべての宗教は倫理における矛盾・ジレンマを抱え込んでいます。なぜならば、宗教とは何であれそれを信仰している人間存在をはるかに越える力・能力・神秘性を追い求める存在だからです。そのことを、ここでは、苦しむすべての「衆生」を救うという宮沢さんがめざした誓願との関係で、ごく簡単に考察していくことにしましょう。当然すべての人の中には、宮沢さん自身、すなわち私(わたくし)という個人存在も含まれます。なぜなら、それが「すべて」という用語の意味なのですから。

 ところで、この世(全宇宙世界)の人間を含むすべての存在の存在様式とは不断に変化するというものです。その変化に対する人間的レスポンスのひとつの様式が科学や宗教であり、さらには倫理です。また、そのことを前提として、社会学は、人間とは、生物的・社会的・宗教的存在であると考えます。さらに、「苦」とは、その人間がこの世の変化へ対応しなければならないことから生じる感性・感情・観性の存在様式の一つであると考えます。

 また、この世(全宇宙世界)の人間を含むすべてのもう一つの存在様式は、それらすべての存在が相互に作用・反作用しつつ関係し合っているというものです。その中で、人間存在の存在様式とは、社会的であるとともに、それゆえ「自我」的存在である、すなわち、この世の自分自身との関係を含むすべての存在との関係性を自-他の関係性として意識することができるというものです。そして、その自-他の関係性を意識することで自己の存在を意識する在り方のひとつが広い意味での倫理です。

 倫理とは、この世のすべての存在の関係性を私個人および人間存在との関係を望ましい・望ましくない、または善悪の評価によって意識的に律するための諸規則(法)または諸規則(法)に関する意識です。その中で、人間の社会的存在と関わる、すなわち、私個人と他の私個人との関係および私個人と社会との関係、そしてある社会と他の社会との関係を律する諸規律(法)は狭い意味での倫理、すなわち道徳です。

 では、倫理的諸規則(法)を評価する望ましい・望ましくない、または善悪の判断とは何に基づいている判断なのでしょうか。社会学は、それは私個人が生きていく中で感じる快苦の感情であると捉えます。そして、道徳を含む倫理的諸規則(法)は、社会生活における諸個人間のその快苦原理を基礎とする感情コミュニケーションによって形成されてくると理解するのです。そのことの意味することとは、私個人は私個人以外の存在と関係することなしに生きていくことは、その存在様式から言ってできないのですが、私個人と関係している存在がすべて私存在にとって「快」の感情を与えてくれるものではなく、むしろ「苦」の感情を生みだす存在でもあるということです。しかも、どのような存在を私個人が快と感じるか、苦と感じるかについては、私個人間で全く重なってはおらず、大小の相違が存在しているがゆえに、すべての人が納得し、快く受け入れることができる倫理的諸規則を生みだすことは、原理的には不可能であるということです。

 これらの社会学的見地を前提として、宮沢さんの誓願である苦しむすべての「衆生」を救うというテーマを社会学はどのように論じていこうとするのかについて言及しておきたいと思います。その宮沢さんの誓願に関して言えば、社会学は、少なくとも、誰が、誰の、どのような苦を、どのような資格と力によって、どのような方法で救済していくのか、そして救済者は救済に際して被救済者に何を求めるのか等の論点項目を考察することになるのではないかと考えます。

 また、苦からの救済には、その性格に関しては、人間世界における現実的救済と人間性会を超越する諸原理によって形成される世界である宗教的世界における精神的救済に分けて論じることができるように思います。例えば、普通に考えれば、自分自身の苦からさえも自分自身の力では救済することができない私個人が、この世のすべての人の、すべての苦を救済することなど、とてもできないことがらだからです。それにもかかわらず、宮沢さんは、宮沢さんだけの力で、苦しむすべての「衆生」を救うという誓願をたてていたのです。

 また、ここでは、人間の存在様式のひとつである自我を社会学はどのように見るのかについて言及しておきたいと思います。それは、宮沢さんが信仰していた仏教とは、社会学的に見ると、その信仰者は自己の自我意識を滅することで無我の境地に至るという悟りをえることをめざしている宗教であると捉えることができるからです。

 社会学は、自我とは、社会生活における諸個人間の感情コミュニケーションによって形成される自分が他の誰でもない自分自身であると認識できる自己内の精神的装置であると把握します。それを踏まえ、社会学は、自我は、自己内における自己と他者との弁証法的関係性によって不断に形成される存在であると捉えます。そして、社会学的に見ると、人は、生きていく中で、その自我という精神的装置における自己性を通して、すなわち自己の欲求・欲望や(自己の夢や希望などを含む)目的・意識性によって、自己の内外の他者性を有する世界との交渉関係を築いていくものなのです。しかし、その交渉関係は常に予定調和的・平和的に進行するのではなく、むしろ常に、ときには厳しい矛盾・葛藤・対立・闘争を生みだしていくものなのです。社会学では、それらをコンフリクトという用語を使って論じてきました。

 その矛盾・葛藤・対立・闘争を和らげ、回避し、平和的な自他の関係性を維持するための社会的装置が、自他の関係性を律する「法」であり、倫理はそれら「法」のひとつなのです。この倫理と宗教(仏教)との関係を自他の関係性における矛盾という視点で哲学的に考察している著作が、未木文美士さんの『仏教VS.倫理』〔ちくま新書、2006年(第三刷)〕です。これからこの著作を参考に、宮沢さんが自己の誓願を実行していくなかで直面していたであろう矛盾・葛藤がどのようなものであったかを見ていくことにしたいと思います。

 

                 竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン