シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

人はみな人生の旅人

 これまでは福島県昭和村の生活文化について綴ってきました。その文化は、個人化的生活様式が行き渡ってしまった日本社会の中では貴重かつ奇跡的なものでした。親密性と開放性を同時に兼ね備えた人の関係性が見られました。それは長い歴史を重ねて地域の方々が育んできた地域に根付いた生活世界の文化でした。現在の日本社会の中でそうした生活文化がどのようにして維持され、今日まで継承されてきたのか、また、若者世代が流出し、高齢化が進んでいる昭和村で、今後その文化は継承されるのかどうか、継承される場合どのような形で継承されていくことになるのか、昭和村について知りたいことはまだまだ尽きることがありません。とくに村内の人たちの間での親密性を保ちながら、一方で、村外の人たちを受け入れ、交流することを楽しむことのできるという外の世界へ開かれているその開放性をもった生活文化がどのように形成されてきたのか、非常に興味あるテーマです。

 しかし、昭和村のことについては一度筆をおき、次に、沖縄県八重山地方の島々の社会とそこに暮らす人についてのフィールドノートを記していきたいと思います。ところで自由意思をもった人が生きていくということは自分の人生を旅する行為です。その旅の軌跡を人は自分の人生物語として認識するのです。その意味ですべての人は人生の旅人で自分の伝記作家です。ただすべての人がよい人生の旅を歩めるわけではありません。なかにはわるい人生を歩む、または歩まざるをえない人もいるのが世の常なのです。それは、社会学的に言えば、私たちが生まれて死んでいくまでの旅をしている社会が何の問題もない完全に健康な社会であるということはないからです。

 ではどのような人生の旅がよい旅で、どのような人生の旅はわるい旅だと言えるのでしょうか。社会学はどのように考えるのでしょうか。よいかわるいかの第1の基準は、自分の人生上の夢や希望が自分の思い通りに実現しているかどうかでしょう。しかし、社会学にとってより重要なのは、よいかわるいかの第2の基準である、その夢や希望の実現は他者の夢や希望の実現とどのような関係性をもっているのかという基準です。この二つの基準を組み合わせて判定すると、(本当は多様なグレーゾーンがあるのでそれほど単純には判定できないのですが)以下の4つの人生の旅に分けることができます。

 最良の人生の旅は、自分の夢や希望の実現だけでなく、他者の夢や希望の実現を励まし、支え、助け、反対に他者から自分の夢や希望の実現を励まされ、支えられ、助けられるという双方向の自他の関係性の中で、自分も、他者もともにそれらの夢や希望を実現することができるようになっていくような旅です。そうした双方向の関係性は築かれているが、どちらか一方か、または両者の夢や希望の実現が果たせないという結果になった場合は、それでもよい旅と言えます。

 励まし、支え、助ける関係が一方向の関係性の場合は、夢や希望の実現がいずれの場合でもわるい旅です。自分の夢や希望をあきらめるか、または自己を犠牲にして他者の夢や希望を励まし、支え、助けるような関係性の中での旅も、同じくわるい旅と言えるでしょう。

 最悪の旅とは、自分の夢や希望の実現のために、他者の夢や希望の実現を踏みにじり、犠牲にするという関係性の中での旅です。そのことで自分の夢や希望が実現した場合でもそのように言うことができます。どれだけ他者の夢や希望の実現を踏みにじり、犠牲にしていったのかに応じて最悪度は高まっていくと考えられます。

 ただし、以上の分類は、あくまで社会学の目で見てのことです。人生の旅人自身が自分の旅をどのように判断し、感じているかということとは全く別次元の分類なのです。生き生きと生きている人とは、やはり社会学的に見てよい人生の旅をしている人と言えます。生き生きと生きている人と出会う旅日記であるこのブログでは、よい人生の旅をおくっている方々に出会い、紹介できることをなによりも願っているのです。

 

     竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン