シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

人を一人前に育む社会の力

 ニート、フリーター、そして社会的ひきこもり問題や児童虐待、ドメスッテクバイオレンスなどの身近な人の間での暴力的関係性は現代社会における大きな社会問題です。また、「誰でもよかった」という動機なき殺人事件や無差別かつ大量の日常生活に潜むテロ的殺傷事件も大きな社会問題だといってもよいでしょう。社会学は、それらの社会問題を、現代社会では人を一人前に育(はぐく)む社会的力が消失しつつある兆候として理解しようとします。

 人を一人前にするという事業は、一個人や一家族だけでできる事業ではありません。それは私たちが属している社会の事業なのです。なぜならば人が一人前になるためには、社会がそのメンバーとなり支えてくれるようになる後継世代を受け入れ、育てようとする基本姿勢を有していることが必要不可欠だからです。そのためどの社会にも、人をその社会が認める一人前に育む社会的仕組みが備わっています。

 例えば、地域コミュニティには、それが個人の所属する基礎的社会であったときには、人が一生をおくるライフサイクルに応じて、地域社会の人々がお互いに、協力・協働し、助け合い、支え合って当該の地域社会の一員になれるよう育てる社会的仕組みがあったのです。

子ども組、若者組、壮年たちによる寄り合い、若妻会や婦人会、念仏講・老人会などなどがそうした社会的仕組みでした。すなわち、人を一人前に育む事業は、現代的用語で表現すれば、生涯教育と言ってもよいものだったのです。

 現代社会では、学校教育がそうした社会的仕組みの代表的なものとなっています。しかし、現在、その学校教育が人を一人前に育てるという機能を果たせなくなっているのではないでしょうか。いわゆるいじめ問題や不登校問題など、学校そのものに通えなくなっている子ども・若者を大量に生み出していることなどがそのことを示しています。

 では、現代社会ではなぜそうした事態が起こるのでしょうか。社会学はそうした問題が起こるのは現代社会がより一層排除的性格を強めているからであると見ます。現代社会の中核をなす社会システムは市場経済システムですが、その市場経済システムは、その本質として、すべての人を受け入れ、一人前に育てようという姿勢をもつ社会システムではないのです。

 市場経済は、経済競争というメカニズムを通して人々を振るい落とす「ふるい」という性格を持っています。しかも、経済のグローバル化の中で経済競争が一段と厳しいものになるにつれてそのふるいの目もより一層粗いものに変化していると言ってよいと思います。

 近代経済学の父であるアダム・スミスさんは、市場経済社会はもともと冷たく、やさしい人を犠牲にする社会であると言っていましたが、現代社会は社会的排除の性格を強め、より冷たくなっていると言えるでしょう。なぜならば、社会的に排除された人たちが増えるという社会現象の原因が社会の人々を受け入れる包摂力の弱さではなく、排除された人たちの自己責任とされる風潮が広がっているからです。

 社会的「ふるい」と競争による振るい分けという性格がより濃厚に現れている社会領域は、企業社会とその企業社会への参入資格付与の社会的機能を担っている学校教育の社会的世界ではないかと思います。これらの社会領域では、日々厳しい競争というふるいにより人々を振るい分け、振るい落し、社会的に排除することが起きているのです(蛇足だとは思いますが、こうした言動は一般的な社会的傾向・動向に関してのものです。当然、そうとは言えない企業や学校が存在することは言うまでもありません。そのことに、人間がつくる社会のすばらしさがあると考えます。)。そのことが上述したような社会問題の直接的・間接的原因となっていると社会学は考えます。

 では、そうした現代社会にあって、振るい落とされ、社会的に排除された人を含め、より多くの人を受け入れ、一人前に育てる力を発揮している社会は存在するのでしょうか。できればそうした社会に出会うことのできる旅をしたいと願っています。そしてこれまでのフィールドワークの体験から、商店街という地域社会もその可能性を秘めているのではないかというのが私の仮説です。そこで次に、商店街を舞台にフィールドワークしたときのノートを振り返ってみようと思います。

 

     竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン