シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

大学教員の教育役割とは

 商店街は、人を一人前にすることのできる社会的力をもった社会となる可能性を秘めているのではないかと考えるようになったのは、北海道江別市にある大麻座商店街との出会いでした。この出会いがあったことで、学生をどのように育てたらよいかということについての考え方も大きく変化していったのです。

 研究と教育を生業とする大学教員の教育面における社会的役割とはどのようなものでしょうか。私の場合は、教員になりたてのころは、研究で習得したことを次につづく世代である学生に授けることと考えていたようです。当時は、学生にはなによりも自分が生きている時代と社会を社会学的なものの見方・考え方で分析できる力を身につけてほしいと思っていたからです。

 当然、学生一人ひとりには彼ら・彼女ら自身の人生目標があり、やりたいことがあり、そして固有の価値観をもっているのだから、私が授けたいと思っていることをそのまま受け止めるものではないことは承知していました。それでも、今思えば、勝手に、社会学的ものの見方・考え方を身に着けることは、彼ら・彼女らにとって、有益で、大切なことだと信じていたのです。

 そのため、授業で重視したのは、社会学的ものの見方・考え方を習得するための土台である社会学の基礎理論、異なった文化を有する社会に関する情報を得るための外書購読、そして根拠をもって、体系的に論ずるため基礎的データーを収集するための基礎的知識と技術となる社会調査法を授けようとしていました。そのときは、学生たちが卒業後どのような企業に就職し、どのような仕事に就いているのか、そしてどのような道を歩んでいるのかに関してあまり関心をもってはいませんでした。

 しかし教員をつづけていくうちに、否応なしに学生たちの卒業後の生活に関心をもたざるをえなくなっていくことになります。上述したような気持で授業をつづけていられたのは、学生たちが希望すればほぼ就職でき、それなりにサラリーマン人生を歩んでいくことができていたという社会的条件にあったからだったのです。その条件が大きく変化していくことになったのは、私の教員生活史の中ではとくに、1990年代の終わりごろからのことになります。

 まず就職難という事態の直面することになったのです。就職先が決まらないまま、やむをえず卒業するという学生が増えていきました。それまでも、そうした学生がいなかったわけではありません。しかし、それまではそうした学生は民間会社への就職を希望しないか、またはそれ以外の道に進むことを希望している学生たちでした。民間会社への就職を希望しながら就職できず卒業する学生が数多く出るようになったのは、私にとって初めてのことだったのです。就職氷河期と呼ばれる時代に突入していきました。

 そうした中で、私が所属していた学部で、就職できなかったことを苦に自殺する学生が出てしまったのです。ただし、その学生は公務員希望の学生でした。狙っていた公務員試験に合格できなかったことで自殺してしまったのです。

 その後、すぐに、そうした厳しい就職難にもかかわらず目出度く就職していった学生の中で、卒業後早い時期に就職先の会社をやめる学生が目立つようになってきました。私のゼミの卒業生の中からも会社を辞めたいということで相談に訪ねてくるものが増えてきたのです。

 当時就職した会社を早期に辞めてしまうという若者の動きに対して、社会は厳しい目を向けていたのではないかと思います。甘えている、我慢が足りない、わがままだ、力量がないなどなどのバッシングの風潮が強かったように記憶しています。

 しかし、相談にきた卒業生の話を聴いている限り、それらのバッシングとは全く異なった実感をもっていました。少ない正社員の一人として職場に慣れる間もなく名ばかりの役職を与えられ、重い責任を負わされる、長時間労働、過酷なノルマの押し付けをはじめとする上司のパワハラ、そして激しい競争主義の下での燃え尽き症候などが大きな要因であり、卒業生たちの労働環境が急速に劣化しているのではないかと感じていたのです。

 他方、戦後日本における社会保障は企業福祉に依存しており、正社員であることでセーフティネットの恩恵を受けることができるという社会条件に変化はありません。相談にきた卒業生たちには、勤めている会社を辞めて自分を取り戻すか、会社にとどまり我慢して生活の安定を図っていくのかの、どちらの道を選んでも厳しい現実がまっている究極の選択を迫られていたと言えます。

 こうした中、学生たちの大学卒業後のさまざまな理不尽さが満ち満ちている現代社会の生活を念頭においた教育活動をしなければならないのではないかと考えるようになっていきました。

 

     竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン