シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

日本の生活福祉・セーフティーネットの形

 戦後日本社会は私たちの日々の生活の安心を支える社会的仕組み、すなわちセーフティーネットシステムを企業の経済活動に依存して作り上げてきました。さらに言えば、人々の生活福祉の社会的仕組みを企業の利潤追求活動の枠内に、その利潤追求活動に適応する形で形成してきたのです。それは世界史的に見たときに、企業の利潤追求活動に対抗し、如何にしてその活動から人々の生活を守ったらよいかという精神で構築されてきた生活福祉の形とは、とくに社会意識面で大きく異なるものでした。日本社会では企業の正社員になることで国の生活福祉の仕組みに守ってもらえる資格をえることができるのです。

 そうした生活福祉・セーフティーネットは、国内や世界の市場が拡大し経済成長が続いているということが、その社会的仕組みがうまく機能する必須の条件だったのです。国内外の市場が成熟し飽和状態となっている今、順調で安定した経済成長を望むことはもはやできません。それにともなって従来の生活福祉・セーフティーネットにも大きなほころびが生じています。その中でも失業や就職難という問題状況は日本社会に大きな影をおとしていると言えるのではないでしょうか。なぜならば失業や就職難は生活福祉・セーフティーネットに守ってもらう資格である正社員であるという条件を失うまたはえることができないということを意味するからです。

 当時そうした生活福祉・セーフティーネットのほころびへの対処政策としてワークシェアリングが提唱されました。国民全体で労働時間を短縮し、より多くの人が正社員として働き続けられるようにしようという、国民全体で痛みを分かち合おうという政策でした。世界的にはオランダで国全体の政策としてワークシェアリングが実現し、世界的不況を逆手にとり、むしろワークライフバランスのとれた新たな働き方改革に結びつけて実現しました。オランダという国は、ある精神科医の方によれば、世界で一番自己チュウの国民なのだそうです。そうした自己チュウの国民性をもった国で実現したのだから、協調性と和を貴ぶ日本社会でワークシェアリングが実現しないということはないはずでした。しかし、残念ながら日本ではワークシェアリング政策が日の目を見ることはありませんでした。

 その時はまだ現役の教員だったので、ある授業の中で学生にワークシェアリングに関する挙手によるアンケートをしてみたことがあります。約50名の学生たちでした。もし自分が仕事に就けずワークシェアしてもらう立場だったらワークシェアリングしてもらいたいかどうかという問いには、全員がしてもらいたいと挙手しました。しかし自分がすでに仕事に就いていているときに自分の給与が下がってもワークシェアしてあげるかどうかという問いには、挙手する学生は一人もいませんでした。「せっかく努力してえてきた給与を他の人のために譲ることはできない」、「もらっている給与を前提に生活をしていると思うからそれを変えることはできない」等々がワークシェアリングできない理由でした。そうした学生たちの意識を見ても日本社会でワークシェアリングが実現することは難しいと感じたことを覚えています。

 ワークシェアリング政策に関する日本社会の反応を見るとき、労働社会学者の熊沢誠さんの指摘を頭に浮かびます。熊沢さんは、日本における企業文化の下では、人々は企業組織の中では協調性や和を大事にし、集団主義的行動をとるが、私的な生活領域における生活防衛に関しては極めて個人主義的な行動をとることを指摘していたのです。それゆえ日本社会の生活文化を、個人主義的でない集団主義的な文化であると特徴づけることに、熊沢さんは大きな疑義を提出していたのです。生活防衛における極端な個人主義という日本人の行動文化は、個々人が生活上の危機に直面した際にいわゆる自己責任という対処を求められる風潮がはびこる一つの大きな要因となっているのではないでしょうか。

 こうした現代日本社会の中で、ワークシェアリング政策を実現した地域社会があります。その地域社会とは大分県姫島村です。どうして姫島村ではワークシェアリング政策を実現することができたのでしょうか。

 

     竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン