シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

ワークシェアリングで姫島村の役場職員になる(2)

 インタビューに応じて下さった男子3人のうち二人目の方は、インタビュー当時32才でした。姫島の多くの若者たちがそうであるように、この方も中学校卒業までは姫島で生活し、国東の高校に進学したことを契機に姫島を出ました。高校卒業後は岡山の大学に進学しています。大学生のころは、この方の場合、大学を卒業した後に姫島に戻るというような気持ちはみじんもなかったといいます。

 ところが大学卒業後正社員になれず岡山県内で契約や派遣社員として働かざるをえなくなってしまったのです。25才のときには、いわゆるニートになってしまったといいます。この方によれば、そのときは人生を半ばあきらめるような気持に陥ってしまったということです。その後1年間全国を放浪したそうです。北は北海道の函館まで行ったことがあると話して下さいました。そこでどうにもならなくなり、26才のとき姫島に戻ったのです。姫島では両親が漁師をしていました。その手伝いをしながらしばらくハローワークに通っていたのだそうです。

 そのとき自分は漁師にはなれないと思っていたので、これからどうしていくのかについて何らのビジョンもなかったそうです。ただ姫島で生活する中で、青年団にも加入し活動していくうちに、この島で暮らしていくのもいいものだなと感じるようになっていったといいます。

 そうしたなか、この方のお母さんが姫島村役場でワークシェアリングを担当していた中元さんと同級生だったこともあって、お母さんが中元さんにこの方の履歴書をもっていったのです。こうして30才になったとき役場の試験を受け、職員になったのです。この人生上における一連の経緯を、この方は次のように振り返って下さいました。

 「もし姫島にワークシェアリングがなかったら村には帰ってきてはいなかった。ワークシェアリングのおかげで自分はひろってもらったと感謝している。ワークシェアリングにより首の皮一枚でつながったと感じて」いますと。給与が低いことに関しても、「独身であり生活は何とかなっている」ということでした。また、「お金よりやる気が大事」とも話して下さいました。

 インタビューした3人目の男性は、当時26才の方でした。この方は高校卒業後大学進学を目指しましたが失敗し専門学校に進学しました。専門学校のとき研修を受けるために福岡で暮らしていましたが都会生活には馴染めなかったといいます。

 この方は小学校6年生のときの作文に将来姫島に残り役場に勤めたいとの夢を書いていたのだそうです。高校生時代には2人兄弟の兄が大分で働き自立したことでますます姫島に残る意思をかためたといいます。そうしたこともあり専門学校卒業後姫島に戻ったのです。ただそのときは役場職員の募集がなかったために郵便局に勤めました。そして次の年役場職員の募集に応募し、受験に合格し念願の役場職員になることができたのです。

 この方が姫島に残りたいと思うようになったのは母親の影響が大きかったといいます。お母さんは学校に勤めていました。そしてこの方にことあるごとに、もし姫島に戻ってくるのであれば働く場所として役場があると話してくれていたというのです。この方は姫島が好きだといいます。すでに小学校のときには姫島で暮らしたいと思うようになっていたのです。その思いが実現することができると確信できたのは、やはり姫島村役場にワークシェアリング存在していたことが大きかったそうです。「姫島に帰ってきたいという若者がいれば、アドバイスをしたい、手伝い・手助けをしたいと考えている」と話してくれていたことが印象深く記憶に残っています。

 人生の歩みの中で挫折や危機に直面したとき生まれ育った故郷が支援の手をそっと差し伸べてくれる、姫島とはそんな村ではないかと、インタビューを通して感じたのでした。「故郷はありがたきかな」ということばを実感することができました。

 

          竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン