シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

「銀河鉄道の夜」と自己犠牲(2)

 繰り返しになりますが、「ほんとうのみんなの幸(さいわい)のためならば僕のからだなんか百ぺん灼(や)いてもかまわない」との覚悟をもって生きていた宮沢さんでしたが、問題は、「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」ということでした。

 この問いに対して、少なくとも死後の幸福を願っての自己犠牲では、「ほんとうのさいわい」にはならないと、宮沢さんは感じていたのではないかと思います。それはジョバンニさんとカンパネルラさんが銀河鉄道の旅で出会った、タイタニック号の沈没事故で自己犠牲的に亡くなったアメリカの家庭教師の青年とその教え子である男の子と女の子二人の子どもたちとの会話の中に表現されています。

 それは銀河鉄道がサウザンクロス駅に到着する直前での会話です。男の子が「僕も少し汽車へ乗(の)ってるんだよ。」と駄々をこねたのです。「青年はきちっと口を結(むす)んで」、「ここでおりなけぁいけないのです」というのです。女の子も「ここで降りなけぁいけないのよ。天上へ行くところなんだから。」と「さびしそうに云いま」す。「だっておっ母(か)さんも行ってらっしゃるしそれに神(かみ)さまが仰(お)っしゃるんだわ。」というのがその理由です。

 そこでジョバンニさんがおもわず叫びだすのです。「そんな神さまうその神さまっだい。」とです。なぜなら、ジョバンニさんが受けていた教えとは、「天上へなんか行かなくたっていいじゃないか。ぼくたちここで天上よりももっといいとこをこさえなけぁいけないって僕の先生が云ってたよ。」というものだったからです。天上よりいいものをつくる、まさしく宮沢さんの夢であり、願いだったものです。

 横道にそれますが、「銀河鉄道の夜」のこの場面を読んでいると、宮沢さんも親しく読んだことだと思われるアンデルセン童話の「マッチ売りの少女」という作品が頭の中に浮かんできます。それは、「マッチ売りの少女」のテーマは、「銀河鉄道の夜」のテーマとは正反対ではなかったかと感じるからです。

 『アンデルセン童話の深層 作品と生いたちの分析』(ちくま学芸文庫)の著者である森省二さんによれば、「マッチ売りの少女」の主題は神のまえに召されることがその人にとって究極の幸福であるということを示すことなのだそうです。森さんの文章を引用しておきたいと思います。

 「この童話は、現実には何の救いもなく死に至る物語です。しかし、ここで語られる『死』は神に召されて昇天するという、宗教的な至福の極致に向かうものです」と。また次のようにも評価します。

 この童話は、「きわめて閉鎖的、『新しい幸福な世界』という死の幻想に溶け込んでいく物語です」というようにです。貧しく、その上父親からも虐待を受けそれこそ究極の孤独の身におかれていた薄幸の少女の死であっても、「神に召されて昇天」できたのであれば、その死は「宗教的な至福の極致」であること暗示している物語、それが「マッチ売りの少女」です。

 だとすれば、他者のために自己犠牲的に死んだ人の死は、さらに「宗教的な至福の極致」に導いてくれる死であるということになるでしょう。しかし、宮沢さんは、その「宗教的な至福の極致」という幸せを「まことのしあわせ」とは思ってはいなかったのではないかと推測します。上述の「銀河鉄道の夜」における会話に表現されているように感じるのです。

 宮沢さんの「銀河鉄道の夜」という作品は、そうしたアンデルセン童話の主題のような死後における「宗教的な至福の極致」という教えに疑義を提起することがテーマであるように思えます。

 そのことは、「銀河鉄道の夜」の最後の、カンパネルラさんの自己犠牲的死の場面にも示されているのではないかと感じます。川でおぼれている自分の学友であるザネリさんを助けるために川に飛び込みザネリさんを助けるのですが、自分は溺れ死んでしまうのです(ただし、作品の中ではそのことを知っているのはジョバンニさんだけなのですが。)。

 しかも自分の命をかけて助けた相手というのがいじめっ子のザネリさんです。カンパネルラさんの死は宗教的には、やはり究極的な自己犠牲であり、最も人間的美しさを示し ている死であると言えるのでしょうか。

 作品の中では簡単にそうであると言うことができないジョバンニさんがいます。「そこに学生たち町の人たちに囲(かこ)まれて青じろい尖(とが)ったあごをしたカンパネルラのお父さんが黒い服(ふく)を着(き)てまっすぐに立って右手に持(も)った時計をじっと見つめていたのです。」「みんなもじっと河を見ていました。誰(だれ)も一言も物(もの)を云(い)う人もありませんでした。」

 ジョバンニさんはカンパネルラさんがすでに亡くなって天上にいってしまっていることを知っています。しかし、カンパネルラさんの安否をかたずをのんで見守っているみんなに、ましてやカンパネルラのお父さんに告げることができませんでした。

 カンパネルラさんは立派だったよ。すでに「まことのしあわせ」をえるために天上にいったよ、と告げることができなかったのです。なぜならば、そうれを告げることがカンパネルラさんが助かることを願っているカンパネルラさんのお父さんをはじめ、「みんな」をどれだけ悲しませることになるか、宮沢さんは痛いほど経験し、知っていたからではないかと考えます。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン